HIPの楽しみ
HIPとは何か
作曲された当時の楽器(オリジナル楽器、ピリオド楽器)を用い、楽譜や奏法に関しても作曲当時の情報を可能な限り調べてオリジナルに近い形で演奏するという、いわゆるHIP (Historically Informed Performance) は、近年ますます盛んになっています。今や、ハイドン、モーツァルトは言わずもがな、ベートーベンやシューベルトも、HIPを抜きにしては語ることは困難になってきました。
これらは単に古い楽器やそのレプリカを使って懐古趣味の演奏をするとか、あるいは学問的な関心のみによる学究的な演奏を行うものでは、もちろんありません。演奏史的に見れば、主として19世紀以降に、大きな音を出すことを目的に楽器が改造され、それに伴って演奏法も大きく変化していったわけですが、いったんそうした「慣習」をクリアし、作曲家が本来頭に描いた音とはどんなものだったのか、当時の聴衆はどのような響きを聴いていたのかというところからスタートしたのが、このHIPです。
HIPの発見
こうした楽器や奏法を取り入れることによって、さまざまな「発見」がもたらされてきました。
- 管楽器と弦楽器のバランスが是正され、これまでかき消されていた様々なテクスチュアが浮き上がるようになった。
- ロマンティックにメロウに演奏されていた楽節が、衝撃的な音としていきいきと蘇ってきた。
- 作曲者のメトロノーム指示に従うことで、眠気を誘っていた緩徐楽章が、艶と推進力のある魅力的な音楽であることが分かった。
もっとも、HIPは19世紀スタイルの演奏を単純に否定するものでもなければ、「正統」な演奏法を再現しようというものでもありません。作品を復古するのではなく、音楽を率直な目で見直した上で、それを現代の文脈で演奏しようとしているのです。堅苦しい話抜きで、私の耳にとっては、オリジナル楽器オーケストラの音はすごく新鮮で、喜びに満ちたものとして響きました。
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このページを最初に書いた頃と違って、オリジナル楽器による演奏もすっかりメジャーになり、古典派の音楽を取り上げるのにHIPを意識しなければ「勉強不足」と言われ、原典版の楽譜を使わなければ時代遅れとみられるほどになってきました。もちろんHIPだけが正解で他の演奏が間違いなどということはあり得ず、奏者も聴衆も、いろいろなアプローチを受け入れる豊かさは大切です。それでもなお、HIPは面白い、と断言しておきましょう。もしもまだ経験したことがなければ、ぜひオリジナル楽器による演奏をお聴きになることをおすすめします。
HIP小史(暫定版)
「古楽」と呼ばれる、歴史的な楽器による演奏は、ブックリストでも取り上げている『古楽の復活』に詳しく述べられているように、ドルメッチ、ランドフスカといったSP時代のパイオニアたちの活動にさかのぼります。ここでは、ブックリストの資料の他、歌崎和彦氏による《時代楽器受容史》(『レコード芸術』2000年3月号)などを参考に、簡単な歴史を振り返っておきます。
SP時代
この時代にはバッハなどのレパートリーも録音されたものの、基本的にはモダン楽器による演奏。「オリジナル楽器演奏といえるものは、シュヴァイツァーのバッハのオルガン曲集やワンダ・ランドフスカの一連のハープシコード演奏くらいだろう」というのが歌崎氏の見解です。1933年にドルメッチのクラヴィコードによるバッハ「平均律」が出たり、コロムビアから「耳と目によるコロムビア音楽史第一部」「アントロジー・ソノール」といった古代楽器による録音も出されました。
1950年代
1954年カール・ミュンヒンガー指揮のシュトゥットガルト室内管弦楽団による「四季」(モダン楽器演奏)と翌年に日本で発売されたアルヒーフ・レーベールで、バロックブーム。オリジナル楽器と呼べる演奏はほとんどオルガン、チェンバロ関係だったようですが、1955年のロルフ・シュレーダーによるバッハ「無伴奏バイオリンソナタ&パルティータ」が注目されます。また、録音の記録(少なくとも日本での発売)はありませんが、アーノンクールがウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを結成したのは1953年のことです。
1960年代
1958年にステレオLPが登場し、高度成長の好景気にも支えられてレコード界は活況を呈します。この時期に、レオンハルト、ブリュッヘン、ビルスマ、アーノンクールなどが登場してきました。まだオリジナル楽器演奏はお勉強という雰囲気が強く、バロックのレパートリーではカール・リヒター、パイヤール、イ・ムジチなどのモダン楽器による演奏が人気を集めています。1962年にはロジャー・ノリントンがハインリッヒ・シュッツ合唱団を、67年にはデイヴィッド・マンロウがロンドン古楽コンソートを結成して活動をはじめました。
1970年代
1970年代は、オリジナル楽器によるオーケストラが続々と設立されます。
1972 | ラ・プティット・バンド | クイケン |
1973 | イングリッシュ・コンソート | ピノック |
アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(AAM) | ホグウッド | |
1977 | ラ・シャペル・ロワイヤル | ヘレヴェッヘ |
1978 | ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ(LCP) | ノリントン |
イギリス・バロック管弦楽団 | ガーディナー | |
レザール・フロリサン | クリスティ | |
1979 | アムステルダム・バロック管弦楽団 | コープマン |
1972年にはアーノンクールとレオンハルトによるバッハのカンタータ全集の刊行が開始されました。ただ、歌崎によれば「この時期のアーノンクールとウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの評価は、必ずしもまだ確立していたわけではなく、むしろコレギウム・アウレウムの方が人気があった」ということ。確かに、個人的にもはじめて“オリジナル楽器”らしき演奏を聴いたのは、コレギウム・アウレウムの「英雄」だったと思います。
1980年代
1978年にホグウッド/AAMが始めたモーツァルト交響曲全集の録音が1983年に完結。オリジナル楽器による演奏が古典派に及び、一般の音楽ファンの注目も集めるようになります。ブリュッヘンが18世紀オーケストラを旗揚げしたのは1981年。86年には彼らのモーツァルト40番+ベートーヴェン1番という録音が話題となり、さらに87年にはノリントンとLCPによるベートーヴェン2/8番がグラモフォン賞を受賞。以降、堰を切ったようにオリジナル楽器による古典派の録音が登場してきます。
1990年代
HIPはレパートリーをロマン派にまで拡大していく一方、アーノンクール、ガーディナー、ノリントンといった指揮者がVPO、BPOなどのモダンオケにも客演。1994年にガーディナーのベートーヴェン交響曲全集が日本のレコードアカデミー大賞を受賞したのも、HIPのメジャー化をつよく印象づけました。