ベートーベン交響曲9番に関するノート
Performance note on Beethoven's symphony No.9
ベートーベンをオリジナル楽器で演奏する場合、私たちは書かれた楽譜、作曲家の意図として知られているもの、当時の演奏スタイルとして必要とされるもの、こうしたものに従ってそれぞれの作品を考え直す機会、恐らくは義務と言っていい、を持つことになります。この一連の演奏において私たちはこれらの偉大な作品を、近年の解釈主義によってではなく、19世紀初期の伝統に則って再創造しようとしました。今日においては、逆説的なことに、この方法を用いることで作品達がより生き生きと語りかけてくれるであろうと確信できます。とりわけ私たちはこの第9交響曲を、この曲がそのもっとも偉大な子孫として生まれでた、人間味溢れ、移ろい易い古典主義時代の思考世界へと復元させようと望んだのです。そこではウィットとユーモアがドラマと一緒になって、人類に知られている最も優れた作品の多くを生み出しています。
ベートーベンの第9のこの演奏は、テキスト、フレージング、弓使い、演奏と歌唱のスタイル、アーティキュレーション、バランス、形式、テンポといった面を改めて考えています。私たちは楽譜が示すそのままに、つまりいかなる書き換え、追加、木管や金管の倍管をも行わずに演奏しているので、これらの全てが重要になります。けれども、音楽の性格を決定する上でとりわけ強力な作用をもたらすのは、もちろんのこと、テンポです。
ベートーベンは極めて詳細なメトロノームの指示を残しており、その重要性を強調していました。伝えられるところによれば彼はメトロノームを「私の作品をどこでも確実に私の考えたテンポで演奏させてくれるすばらしい方法です。残念ながら私のテンポは余りにしばしば誤解されているものですから」というふうにみていたといわれます。言うまでもなく、これらの指示はあくまでもガイドにすぎません。演奏者も、ホールも、演奏機会もさまざまなのですから、創造的解釈の余地は残されてしかるべきでしょう。しかし、指示するところからずーっと遠くをさまよってしまっては、控えめに言っても、世界で最も偉大な音楽的知性から得ることのできる唯一の情報を無視していることになるのです。
私たちの歴史的手法とは、メトロノーム指示がその曲についてどんなことを教えてくれるかを考えることです。それが20世紀の「伝統」に合わないからといって間違いであると決めつけたりはしません。どういうことがわかるでしょうか?
第1楽章
ベートーベンはこれをアレグロ・マ・ノン・トロッポとし、4分音符=88という指示はこれにうまく合致しています。彼は実際は第1楽章をアレグロとしたかったという事実は、自筆譜に書き込まれた4分音符=108もしくは120という仮の指示によって見て取ることができます。それならば速いテンポであったでしょう! 最終的に選ばれた88は、恐れと慈愛、恐怖と希望という数々の明確なテーマとその驚くべき展開と一緒になって、このすばらしい楽章の劇的な要素と内省的な要素の両方を完璧に調和させているのです。それは神秘的と言うよりはむしろ炎のように劇的で、この作品を3番、5番、7番の交響曲に同時に結び付けます。そして当時の文筆家はこのように言っています:「ベートーベンの力に満ちたテンポは奔流のように聴衆をぐいぐい引っ張っていく」。
第2楽章
スケルツォは付点2分音符=116、モルト・ヴィヴァーチェであり、ごく問題の無いテンポです(そして、ちょうど「エロイカ」と同じ速さでもあります)。このスケルツォと交互に現れる田園風のトリオは、しかしながら、長年にわたって多くの混乱と議論を引き起こしてきました。ベートーベンはこのふたつをプレスト(急速に)のトリオへと続くストリンジェンド(だんだん速く)で結び付けています。しかし、このプレストは2分音符=116とも記されているのです! 大多数の演奏はプレスト(急速に)のほうを採用し、ベートーベンはおそらく全音符=116のつもりだったのだろうというふうに考えることで辻妻を合わせてメトロノームの指示を無視しています。それにしても、ベートーベンの意味するところが、だんだん速くしていって同じテンポにたどり着けなど言うことが有り得るのでしょうか? そんなことがどうやってできるのでしょう?
私たちにとって、その答はごく単純であるように思われます:このストリンジェンドとは、霊感的な逸脱のつながりなのです。アラ・ブレーヴェ(2つ振り)の部分にに続くトリオはまさに同じテンポで進むのです。それは劇的なスケルツォの狂乱と完全なバランスで物憂げに対照をなし、ベートーベンのメトロノーム指示は「速すぎる」という神話の偽りを見事に証明してみせるのです。
それから、いくつかの楽譜にはスケルツォに戻るとき繰り返しがありますが、これはミスプリントです。1825年にベートーベンがロンドンのチャールズ・ニートに宛てた手紙を見ればこのことがはっきりします:「繰返し無しで」。
第3楽章
ハイドンやモーツアルト、あるいはベートーベンのあらゆる「緩徐楽章」と同様にこの楽章もそれほどゆっくりなものではありません。作曲家はこれを4分音符=60と指示しています。彼がアダージオ・モルト(たいへんゆっくりと)と書き記したので、多くの解釈者がこの楽章を60よりもずっと遅いものとしてとらえました。しかし、このアダージオは2分音符で数えたリズムの動きについて言っているのだと考えて差し支えありません。ベートーベンのメトロノームでは30という速さが使えなかったので、彼はしばしばゆっくりとしたスピードの単位を2倍にして表したのです。その例は第4交響曲の冒頭(アダージオ、4分音符=66)や弦楽4重奏曲作品59の2(モルト・アダージオ、4分音符=60)に見ることができます。
このポイントはやや速い4分音符=63と記された第2部に至るとずっとはっきりします。ここではアンダンテ・モデラートはあきらかに4分音符について言っています。私は、ベートーベン、あるいはそのメトロノームが「正しくない」と言うにはことのほか深い注意を払わなければならないと思います。世界中の誰もが、現在と同様に当時においても、60という速さを知っていました。それは大きな掛け時計が時を刻む速さなのです! もう確実なこととして、4分音符=60は有名な装飾的な変奏の時に再び現れます。もしそれがこの速さで名人芸的に、アイロニックにすら響くとすれば、それが作曲家の意図でないなどということがあるでしょうか? いずれにせよ、彼はほとんど同じパッセージを「田園」交響曲の最終楽章ですでに書いているのです。そこにおいて4分音符=60に異議を唱える人はいません! ここでもやはり、楽章は古典派交響曲に求められるパターンにちゃんと合致しているのです。
第4楽章
合唱のフィナーレは付点2分音符=66の猛々しいプレストと、チェロとバスの荒々しいレチタティーヴォで始まります。何らかの理由で、このレチラティーヴォはたいへんゆっくりと重々しく演奏するという「伝統」になっています。これはおかしなことです。なぜならば、楽譜はここではっきりとこう言っているからです:「レチタティーヴォの性格に従って、しかしテンポ通りに」、そしてベートーベンの2人の親しい友人はこの部分が「まるで雷のような効果を持つほど速く」進んでいくと強調しているのです。私にはこれらのガイドを疑う理由はありませんし、あなたはこのレコードでその衝撃的な効果を耳で確かめることができます。
名高い喜びのテーマは2分音符=80で満足がいくと予測がつきますが、付点4分音符=84のマーチはベートーベンの指示する速さが近代の伝統よりもかなりゆっくりである場合のもう一つの例です。実際、付点4分音符=84は余りにゆっくりなので近代の解釈者達は単にそれを無視してマーチをずっと速く演奏します。しかし、私は表記されたメトロノーム指示からかけ離れるべきではないと言う理由が少なくとも3つはあると思います。第1に、それが自然な行進のスピードであると言うこと(マルセイエーズやリリブルレーロを考えてみてください)。第2に、フィナーレ全体の構成においてこのテンポが重要であると言うこと:まさに同じ84がアダージオ部分の後に回帰してくるのです。第3に、着実で、素朴で、「田舎っぽい」ペースはユーモアがあり、それ自身が人間味があります。これはこの楽章にとって大変重要なものであり、ベートーベンの同時代人が「シェークスピア風」であると考えたものなのです。ベートーベンのメッセージはすべての人に向けられており、英雄のためだけではありません。「すべての人が兄弟である」とは、荘厳であると同時にほろ酔い加減のことでもあるのです。
つづいて楽章の峻厳な中心部分にアンダンテとアダージオがあります。いずれも余り遅くなく、2分音符=72と2分音符=60となっています。そして84が巨大で喜びに溢れた二重フーガとして戻ってきます。楽章が終結に向かう段階でさらに二回のテンポの変化があります。最初のものはごく素直な2分音符=120のアレグロ・マ・ノン・トロッポですが、その中には短いポコ・アダージオと記された部分があります。ここはまさにその意味するとおりでなければなりません:少し速度を落としてであって、可能な限りゆっくりではないのです。最後にプレスティッシモが来ます。それは(またしても!)2分音符=132であって決して急ぎすぎてはなりません(自筆譜にはただプレストと記されています)。この速さで演奏するとき、一番最後の部分の二つの顔がはっきりと現れてきます:弦楽器により倍の速さで奏されるメロディと木管楽器とティンパニによる交響曲の一番冒頭部分の回想です。
結論として:このすばらしい作品には主題や形式にだけでなく、テンポにもきわめて注意深くつくられた構成があることが明らかになります。メトロノームの指示に十分近く従って行けば(がちがちにこだわる必要はありません)この作品はロマンティックであると同時に古典派的に、神秘的でありながら劇的に、叙事詩のようでありかつ人間味あふれて響きわたるでしょう。それはベートーベンのそれ以前の交響曲の自然な後継者であり、彼の作曲生活の、そしてその時代すべての到達点なのです。
ロジャー・ノリントン