ワーグナーの演奏ノート
Wagner Orchestral Works


このCDについて

このレコーディングはロンドン・クラシカル・プレイヤーズにとってまた一つの大きな成果です。この10年間での同じようなキーとなる仕事としては、モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」、ベートーベンの「交響曲第9番」、シューベルトの「グレート」、ベルリオーズの「幻想交響曲」、ブラームスの「交響曲第1番」があげられます。これらはすべてスコア、楽器、演奏スタイルに関する本格的な研究の賜です。そして、すべてが私たちの、またしばしば他の音楽家たちにとっても、これらの傑作の見方に根本的な変革をもたらしたのでした。

私たちはこの間、19世紀の各10年区切り毎に、その時期についての研究と実践が次の時期に対して最大の影響を与えることができるよう、十分な注意を払いながら進んできました。ベートーベンについてはハイドンとモーツアルトから、ベルリオーズについてはグルック、ベートーベン、ウェーバーから、シューマンについてはメンデルスゾーンから、ブラームスについてはシューマンからというように。「初期ロマン派序曲集」のレコーディングの中で、私たちは「さまよえるオランダ人」序曲の第1稿をつかってワーグナーの味見をしておきました。それ以外は、私たちの楽器と演奏スタイルについての知識が1870年代の世界に達するまで時間をおき、ようやくこのレコーディングが可能になったのです。

楽器

ワーグナーの管弦楽サイズとサウンドはブラームスの対極にありますが、私たちが演奏する楽器は、もちろんのこと、同じものです。ですから、私たちがブラームスの交響曲や「ドイツ・レクイエム」を録音したことは、ワーグナーにおける技術上の問題に習熟するのに大いに役立っています。弦楽器は、ガット弦を使う点を除けば、あらゆる面で今日のものと似ていますが、木管と金管は構造的に驚くほど今日と異なっています。木管はより個性的(individual)であり、金管はより特徴的(characterful)であり、荒々しさ(ferocious)はもっと少なかったのです。三つの「コーラス」のバランスをとることは、近代オーケストラよりも容易になります。ピッチはA=435よりもやや低めに設定してあります。

オーケストラの規模

金管と木管の良好なバランスを取るため、ワーグナーはフルート、オーボエ、クラリネット、バスーンを3本ずつ使い、バスクラリネット(例えばトリスタンにおいてのように)やコントラバスーンで色彩を加えました。これら全てと弦のバランスを取るため、彼は、可能なときはいつでも弦楽器を拡張しましたが、彼の後年の、バイロイトでの理想的編成である16,16,12,12,8という編成は一部の劇場でしか実現しませんでした。私たちのオーケストラは1880年代のフルサイズのウィーン・フィルの編成を再現しています。それは大ドイツのどの常設オーケストラよりも大規模なものでした。

演奏のスタイル

ワーグナーの作品は音楽のスタイルの驚くべき多様さが特徴です。彼は主要な作品ごとに新しいスタイルを創り出したと言っても過言ではないでしょう。しかし、演奏スタイルという面では、彼は当時の標準的な習慣にならい、書き込みによって補足や指示を行っていました。今日との決定的な違いは、木管と金管のアーティキュレーションと、スタッカートと[弓を]弦にのせたレガート、ポルタートと飛ぶようなスタッカートを区別する弦の弓使いでした。何よりも注目すべきは、ビブラートはオーケストラのどのパートでも使われず、一方ポルタメントは明らかに用いられていたという点でしょう。私たちのブラームスの演奏と同様、「ピュアな音」ではワーグナーの情熱が表現できないと言うようなことはありませんでした。耳がビブラートで常時くすぐられていなければ、演奏者はよりフレージングに工夫を凝らし、聞き手は音楽の意図するところに導かれるでしょう。正確な音程はより美しく響き、不協和音はいっそう刺激的になります。私の考えでは、「パルシファル」前奏曲の透明な音楽世界は、こうした純粋性から計り知れない恩恵を受けています。この結果、金管の音から木管への受け渡しは素晴らしいものになっています(例えば41小節目)。

テンポと解釈

楽器と演奏法が決まり、オーケストラがバイロイトスタイルあるいは当時の一般的コンサートの並びで席に着いたとして(私たちは後者を採用しました)、まだ音楽をどのように演奏するかという難問が残っています。

ワーグナーは「リエンツィ」以後メトロノーム記号を用いないようになり、同時に自作や他の作曲家の音楽のテンポを変更することで有名になりました。バイロイトでの演奏時間の記録を見ると、彼の死後、演奏のスピードはどんどん遅くなり、より劇的なテンポ変更が盛んになったことが分かります。今日においても、私たちは100年前に比べてずっと長い、従ってずっとゆっくりとした演奏を耳にしています。私がこのプロジェクトについて意見を聞いたワーグナー研究者は皆、これらの演奏について、音楽を損なうものと考えていました。しかし、彼の生前においてさえも、ワーグナー自身もまた自分の音楽は「あまりにゆっくり」演奏されていると苦情を述べているのです。

彼の後期オペラを初めて耳にしたときから、わたしはワーグナーをゆっくり渦巻く霧を通してしか捉えることのできない何か特別な神秘的なものではなく、音楽として取り上げたいという思いにずっととらわれてきました。彼の著作『指揮について』で「マイスタージンガー」前奏曲を詳細に解説している部分で、彼はSehr mäßig bewegt(極めて適度に活発に)は実際Allegro maestosoの意味であり、「各小節に4つの元気な四分音符がある本当に楽しいアレグロ」がすぐに1小節2拍の勢いのあるalla breve(二つ振り)に移行していく、と説明しています。それだけでなく、彼がその曲を指揮する場合は「8分と数秒」で演奏すると強調しているのです。近代の演奏は9分から11分を要しており、しかも「本当に楽しいアレグロ」にお目にかかることはまずありません。ですから、特にこの曲には静かでゆったりした音楽の部分もあることを考えると、8分というのはとても刺激的な挑戦です。しかし、考えてみれば「マイスタージンガー」は喜劇で、春の暖かく幸せな祝福の音楽であり、愛と仲間の音楽なのです。ワーグナー自身によるアドバイスはこうした面を浮かび上がらせるように思われます。私たちは、彼に従うべきでしょうか、それとも、もっと最近の、壮大な慣習を取るべきでしょうか?

全ての曲にこのような詳細な文書が残されているわけではありません。しかし他の場合は、直感と同時代の情報と演奏スタイルから、あまりにゆっくりでパターンがほとんど分からなくなるようなテンポは疑わしいと考えることができます。例えば、今日の「トリスタン」の演奏の多くは、ビブラートを使わない古い楽器ではほとんど演奏不可能に近いでしょう。しかし、前奏曲とはそれほどゆっくり演奏される「べき」なのでしょうか? 6/4拍子(「パルシファル」前奏曲の中間部のように)ではなく6/8拍子であり、それは歴史的に見て1小節2拍という数え方から外れることはなかったものです。ワーグナーの言う「slow and languishing(ゆっくり、そして思い悩むように)」とは、ごく自然に考えて、八分音符のことではなく付点四分音符のことを指すのだと私は確信しています。和声的に極めて革新的な「トリスタン」前奏曲は、ゆっくりしたワルツの時代(明らかな選択です)のラブシーンの長い伝統に連なるものです。同時代でメトロノーム記号がその伝統をはっきり示している例としては、ベルリオーズの「ロメオとジュリエット(1841)」と「トロイ人(1850年代)」やヴェルディの「椿姫(1853)」があげられるでしょう。ワーグナーが他の誰とも全く異なることを欲していたという可能性もないわけではありません。しかし、純粋に演劇的見地から、情熱の高まりとテキストの背景にある海のうねりを考えると、不吉なふさぎ込んだ音楽よりも動きと歓喜の気持ちが感じられる音楽の方がはるかにふさわしいと私には思えるのです。

ですから、このレコーディングにおいて、私たちはワーグナーが自分の音楽に求めていたであろう音、動き、スピードを目指しました。と同時に、もちろんのことながら、彼の重要な個性である神秘や夢のような美しさも損なうことのないように努力しました。それは楽しくわくわくする挑戦でした。

プログラム

私たちはワーグナーの主要な作曲時期からそれぞれの10年を代表するような曲を選びました。「リエンツィ」は1840年代を、「トリスタン」は50年代を、「マイスタージンガー」は60年代を代表しています。「ジークフリート牧歌」はここでは70年代に完結した「指輪」連作を代表しており、「パルシファル」は80年代の作品です。「ローエングリン」はこのレコードへの一種の楽しいアンコールです。この曲で私たちは再び40年代の世界に舞い戻るのです。

Roger Norringtonロジャー・ノリントン, 1995

訳注

  1. メンバー表によれば、このレコーディングでの弦の編成は14,13,9,8,8になっている。日本版のライナーノートでは「これは1880年代のウィーン・フィルの編成と同じだそうで、そうだとすれば8、8、6、4、2といった編成であろう」となっているが、これはノリントンのfull-sizeというコメントを見落とし、メンバー表も数えなかったのであろうか。

  2. ワーグナー「指揮について」Über das Dirigiren, 1869)、三光長治監修『ワーグナー著作集-1』(1990, 第三文明社, ISBN:4-476-03164-1)所収

    同訳書の298頁から307頁にかけて、ワーグナーは「マイスタージンガー」前奏曲の演奏について、いかに同時代の指揮者が分かっていないか、自分としてはどんなつもりで作曲したかを詳しく説明している。例えば、このSehr mäßig bewegt (allegro moderato)という速度表記を巡って

    ...この適度な速さの4/4拍子は、きわめて大きな解釈の幅を含んでいる。力強く「躍動する」四分音符で拍をとれば、生き生きとした真のアレグロが表現される(私がこの序曲のメインテンポとして考えていたのは、このテンポであり、それが最も顕著に現れているのは、行進曲からホ長調への八小節の移行部分である)。

    と述べている。

  3. 「マイスタージンガー」前奏曲の冒頭に記された標語。現在では一般に壮大で豪華に演奏される。2語目は文字化けするかもしれませんが、ma(umlaut)βigという単語です。

  4. 「トリスタン」前奏曲の冒頭に記された標語。原語ではLangsam und schmachtend。極めてゆっくり演奏されることが多い。

(注は訳者による)

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