Where few have gone before
指揮者ロジャー・ノリントンは、ロンドン・クラシカル・プレイヤーズとともに19世紀の探求を続けて、ついにワーグナーまでたどり着いた。
オリジナル楽器のことを、交響楽団からレパートリーを奪い取るために慎重に仕組まれたある種の陰謀だという人もいる。ロジャー・ノリントンは異なる見方を示す。彼の「古楽」への取り組みは1960年代のシュッツ合唱団の結成までさかのぼる。「シュッツに10年間を費やしたあと、私たちは考えました。『じゃあ、次の世代はどうだ? バッハ、テレマン、ヘンデル:それがいい。』それはいつしか『グルックやハイドンは?』となりました。挑戦は私の好きなことです。たぶん私はパイオニアなのでしょう。ある分野がうまくいくと、私は先に進みたくなるのです。まだ誰もいないところへね。」
同じようにして、ノリントンとロンドン・クラシカル・プレイヤーズ(彼が1978年に創設したオーケストラ)の最新CDはワーグナーの時代の楽器で演奏した、ワーグナーのオペラの抜粋を届けてくれた。ノリントンは言う。「5年前は、まさかワーグナーを取り上げるなんて夢にも思いませんでした。しかし、10年前には、ベートーベンを演奏することも想像していませんでした。コーナーを曲がるときは、いつもそうした少しだけ見えているというものがあるのです。私たちはシューベルトがこのオーケストラで素晴らしく響くと分かったので、シューマンにも取り組んでみようと考えました:そこからきっと素晴らしいものが引き出せるだろうと。そして私たちは、ブラームスでどんなことが起きるかを確かめねばならないと思うようになりました。さらに、そこまで進んだら、あなたはワーグナーを考え始めるでしょう。私はこのワーグナーのディスクが人々にとって衝撃的であるかどうかわかりません。けれども、もし今それが衝撃であるとしても、5年10年すればそうではなくなっていくのです。」
このような歴史的プロセスの感覚は、ノリントンの演奏に生命を与えているものの一部である。「ある人々は私たちがひょいとやって来て、『これはみんな間違いだ。我々はどうすべきか知っている』と言うのだと考えたりします。実際のところ、それはあべこべですね。私たちは『この作曲家について何も知りません。どんなことが発見できるでしょうか?』と言っているのです。ゼロ地点から出発すれば、いつでも多くの疑問が湧いてきます。もちろん、ほとんどの夕べに私たちは答えを提供しなければならないのですが、それはあくまで仮のものに過ぎません。それらを録音するということは、答えが一時的なものでなくなるという危険を冒すわけですが、より多くの人に聴いてもらえるという利点もあるということです。」
“ゼロ地点”に立ち戻るということは、明らかに、作曲家が自作の演奏について述べたであろうことを読みとるということを意味し、特にある点がノリントンを立ち止まって考えさせる。「ワーグナーはある時、前回彼が『マイスタージンガー』序曲を指揮したときは8分と少々だったと書いています。『わぉ』と思うでしょう。クレンペラーは11分ぐらいかけていますし、ほとんどの録音は9分少しです。しかし、ワーグナーがこうして欲しいと語った言葉がある。誰か注意を払ったことがあるのでしょうか? 我々の演奏は約8分19秒だから、まだどこかに少し遅すぎる部分があるのです。」
ノリントンの考えでは、ビブラートがワークナーの音楽をゆっくりにしてしまう原因の一つである。「LCPのような最小限のビブラートで音を持続するというのは非常に難しいことですが、モダン・オーケストラのビブラートは音を持続する手段になっているので、ゆっくり演奏する誘惑にとらわれがちになるのです。私は、そのようなビブラートのクッションは不要であることに気がつきました。ちょうどそれは、自分が美人であると自覚している人のようなものです:ある種の即物的な魅力はあるのですが、人々はその人の言っていることには耳を傾けてくれません。ビブラートなしでの演奏は、音楽に素晴らしい強さと目的を与えてくれます。それはブラームスでもワーグナーでもそうなのです。」
このワーグナーのディスクは「トリスタンとイゾルデ」の愛の死も収録している。歌はモダン・オケとのモーツァルトやベリーニの演奏もレパートリーとするジェイン・イーグレン。しかし、ノリントンが指摘するように“ワグネリアン”の声はワーグナー自身は利用できなかった。「なぜなら、もちろんのこと、最初はワーグナーの歌手たちはワーグナーを歌ったことがなかったのですから。彼らはイタリアのレパートリーを歌っており、ドイツの曲はほとんどありませんでした。歌手たちは喜んであちこち移動しました。古楽では、通常ほかの分野をあまり手がけない、別の種類の歌手を起用します。モーツァルトからベルディ、ワーグナーを手がける歌手の場合、異なったスタイルで育ってきており、単純に楽器を持ち替えるというわけには行かないのです。私たちはワーグナー時代の歌手について、楽器ほどの知識はありません。しかし今日のオペラ劇場は大きくなり、楽器の音は大きく、ビブラートを使わない声はより過酷な条件にあります。私はジェイン・イーグレンはワーグナー時代の歌手よりビブラートを使うだろうと思っていましたが、しかしその声は素晴らしく、情熱的で、モーツァルトの歌い方からとても柔軟に出てきてくれました。」
ノリントンはビブラートが追放され全ての弦はガット弦である世界に住んでいるのだと我々が思ったりしないように、彼は現実は違うのだということを指摘する。「人々は私が銀のリュートをくわえて生まれたと思っているようですが、私の弾くバイオリンはモダン・バイオリンですし、それをビブラートなしで弾くのはとても難しいと思います。ある意味で、古楽は副業です:素晴らしく、魅力的ですが、それは私の一年の20%を占めているに過ぎません。私は両方の世界に住んでいます。そして、モダン・オーケストラが私と一緒に仕事をしたいと言ってくれるのは、私が彼らに難しい疑問をぶつけると知っているからなのです。私はそこでビブラートについての講義から始めたりしません。私は2つの世界が同時にやってくるという考えが好きです。ですから、私は行ったり来たりを繰り返し、高度なアンサンブルとチューニングをモダン・オケから持ってきて、フレージングや人がデリカシーと呼ぶところのものをもう一方から持ち帰るのです。」
ノリントンのLCPとの計画は、1996年のプラハの春音楽祭でのスメタナの演奏などがある:ドボルザークやチャイコフスキーも興味をそそる可能性だ。「私も我々がどこまで行けるのか分かりません。今年のアムステルダム・マーラー・フェスティバルである批評家が『そろそろ初期のマーラーをオリジナル楽器で聴ける頃ではないのかな?』と言っていました。だから、合図は鳴っているんですね。」
ノリントンは間違いなくその合図を聞いたはずだ。彼の最大の敵は常識というやつである。この爽快な非教条的音楽家は、一つだけ彼自身の教条を持っている:「疑うことは有益なり。」
(Nick Kimberly, Gramophone, November 1995)