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rdfs:label | "利尻島アフトロマナイで殺獲されたヒグマ" |
schema:name | "利尻島アフトロマナイで殺獲されたヒグマ" @ja |
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schema:description | "北海道といえば、「ヒグマ」。いま現在、利尻島には生息していないが、明治45年に、はるばる北海道本島から泳いで渡ってきた記録がある。クマ騒動は、当時の新聞紙面を飾るほどの珍事で、八田三郎による報告も知られる(大正元年「熊の渡海」『動物学雑誌』第24巻第288号)。 【小樽新聞】 明治45年5月23日「鬼脇に熊出没」 5月25日「鬼脇付近の巨熊」 5月30日「利尻島沖で巨熊撃殺の後報」 【北海タイムス】 6月 2日「孤島に熊群の侵入」 これら新聞記事によると、5月22日あたりから利尻島にクマがあらわれていたとのこと。どうも利尻島の対岸から島に泳ぎわたり、一度上陸してからまた海に戻ったという。そうして再び、上陸しようと海岸に向かって泳いでいたところを□〆(カクシメ)赤坂漁場の若い衆に発見され、大捕物のすえに斧で撲殺されてしまった。 そのときの写真(明治45年5月24日 寺島豊次郎撮影)には、アゴを鉄砲で支えられたヒグマ(雄の成獣で背丈2.4m、体重300㎏)と、まわりに群がる大勢の人が写されている。記事からは、現在の旭浜、アフトロマナイ海岸にクマが泳ぎ渡ろうとしたことがわかるが、クマはどこから利尻島に渡ろうとしたのかは、今もってわからない。また、クマが解体された後の毛皮については、赤坂漁場の親方の手に渡ったといわれているが、所在は不明である。 では、なぜ島に渡ってきたのか。言い伝えでは、天塩の山火事で食べ物がなくなったため、利尻島を目指して泳ぎ渡ってきたといわれている。しかし、「天塩の山火事に追われ天塩から渡った」というのは、本当なのか?まず、明治45年のこの時期に天塩で山火事はないので、「山火事に追われた」という言い伝えは根拠がなくなる。ちなみに、このころの「火事」を挙げると 明治43年5月24日 天塩村市街169戸焼失 明治44年4月 8日 鬼脇村清川31戸・36棟焼失 5月13日 鴛泊村本泊~ポン山 7日間延焼 5月17日 稚内町720戸・宗谷村71戸焼失 天塩産土原野山火事 以上のように、当時は火事が頻繁にあった時代で、人から人へ言い伝わるうちに、クマ騒動と話が組み合わさったのかもしれない。 次に、渡り始めたのは「天塩から」といわれている。現在の天塩町の中心地から利尻島までの距離は、およそ50kmある。クマは“泳ぎの名手”といわれており水浴びも好きで、昭和20~30年代までは知床五湖や芦別岳の熊の沼、大雪山の沼の原・沼の平・高原沼などには水浴びのために来るヒグマの足跡が必ず見られたという。また、ヒグマが遊泳している記録は、安政3(1856)年5月、石狩川を泳いでいるヒグマを有名な北方探検家である松浦武四郎が3回見ている。さらに、網走管内置戸町の「おけと湖」を泳ぐヒグマを報道した記事もある。 しかし、いくら“泳ぎの名手”とはいえ、潮の流れのある海を50kmも泳ぐのは大変なことである。最短ルートは、稚咲内からオネトマナイ川にかけての海岸からで、直線距離で20kmを測る。どのルートでたどり着いたかは謎だが、今に語り継がれる珍事件といえるだろう。...(more)" |
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