rdf:type | <https://jpsearch.go.jp/term/type/民族資料> |
rdfs:label | "大野土佐日記-写本(複製)" |
schema:name 3 | "Ono Tosa Diary (handwritten copy)" @en |
schema:name | "大野土佐日記-写本(複製)" @ja |
schema:name | "おおのとさにっき" @ja-kana |
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schema:description 2 | "This is an ancient document written by a chief priest of Raiko Shrine late in the Edo period (1603–1868). It says that people came from Japan's mainland of Honshu to today’s Shiriuchi Town in search of placer gold....(more)" |
schema:description | "原資料は雷公神社所蔵。江戸時代後期に雷公神社の神主によって書かれた古文書です。神主である大野家の口伝を書き留めたもの。元久2(1205)に知内に流れ着いた人が砂金を発見したことから、荒木大学や大野家の祖先らが砂金を求めて本州から入ってきた旨が書かれています。文書に残る知内最古の和人の様子です。 原本と写本の二冊あり。原本は、縦25.5cm、横18cmで和紙(仙花)を二つ折りにし、1ページに約7行ずつ書かれており、紙数89枚で178ページあります。毛筆(御家流漢文まじり変体仮名崩し書き)で書かれ、表紙と裏表紙のほか前後数ページがありません。原本は宝暦元年(1751)頃に雷公神社第十七代宮司大野土佐守為将よって書かれたものと推測されています。 写本は、毛筆(御家流変体仮名漢文まじり草書)で、有名な「元久二年筑前船漂流…」と書かれている頭書から「嘉慶まで百七拾年云々」の文まで11枚の罫紙で1ページ20行になっています。罫紙のあとは、半紙を二つ折りにしたものになり1ページ約12行で29枚あります。この写本は縦25.5cm、横16.5cmで表紙・裏表紙があり、奥書もついています。 最後の方に「知内在 大野松元控 再記 大野土佐守 同但馬守」とありますので宝暦元年(一七五一)から文政一二(一八二九)年頃に大野土佐守と但馬守の二代にわたって書かれたと考えられます。...(more)" |
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