ノリントンのブラームス3-4番
英グラモフォン誌のCD評から

「グラモフォン」誌の読者のはたしてどれくらいが、ブラームスの交響曲3番の最初のページを開いてみて、疑問符が点滅したという経験をお持ちだろうか。これもまた、伝統のおかげで我々が道に迷うという、もう一つの例なのだろうか? アレグロ・コン・ブリオは、まさに文字どおり「速く、激しく」という意味なのだろうか? 通常の音楽ファンに疑問符が点滅するということは、ロジャー・ノリントンにとっての青信号である。この新しいディスクは彼の答えを示してくれる。ノリントン流のアレグロ・コン・ブリオは、急速なワルツのテンポで、1小節は6つ振りではなく2つ振りのようであり、バイオリンの旋律は情熱的に前に向かってつながっていく。実際のところ、シューマンのライン交響曲の冒頭と、たまたまという以上によく似ているのだ。

これは山道を切り開いていくような演奏であり、時を経て成熟した解釈でもなければ、また全ての点が十分説得力を持っているというわけでもない:第1楽章のよりリラックスした第2部への経過部は、もっと柔軟であってもよいだろう。けれども全体として、ノリントンは単にメトロノームに忠実というのとはぜんぜん違う。劇的で急き立てるようなアレグロと、楽章の中心部のウン・ポコ・ソステヌートの内省的なパッセージとの対比は特に雄弁だ。そして交響曲が進むにつれて、啓示は頻繁に示されるようになる。アンダンテの第2楽章は、さわやかで表情豊かだ。木管のきわめて明瞭なフレージングや終結に向けての全管弦楽による大きなクレッシェンドのすばらしい開始。3楽章にも同様の優れた部分がある。とりわけ再現部のホルンのソロだ。ノリントンは19世紀のバルブ・ホルンを使っている(従ってミュートされたストップ音はない)が、その音は我々が今日思い浮かべるものとははっきりと異なっている−より暖かく、鋭くなく、柔らかくサラサラと鳴る木の葉の間からホルンが響くような、いわく言い難い森の国のキャラクターを持っているのだ。ノリントンの異例ともいえる急速で推進力のあるアレグロ(繰り返される三連符にシューベルトの大ハ長調交響曲がこだまする)の後、交響曲の最終頁に戻ってくるのは、この森の静寂なのだ。

この録音の最大の収穫をあげるとしたら、それはオーケストラの響きのテクスチュアであろう。そう、時には傷もある−3番のアンダンテのコーダにおけるトロンボーンのイントネーションや、時折チェロの高音がむずかる−が、悪口屋があなたを信じ込ませたほどには、こうした部分は滅多にない。ノリントンが言うように、意外な新発見がたくさんある。例えば、木管はずっと前面に出てくる。それは弦が少ないからというだけではなく、個々の木管楽器の音がより明確に際立っているからでもある(そのため、ブラームスの管楽器の和音がずいぶん違って聞こえることもある)。第3交響曲のコーダでは、音の景観がすっかり変容している:弦楽器、木管、ホルンは単なる贅沢な混ぜものではなく、あたかも別の平面上にあるかのように立ち現れる−陽光が差し込み、群葉のスクリーンを通して遠くの光景が垣間見える、三次元の森なのだ。もちろん、録音によるところも大きい(スタジオ風の雰囲気ではあるが)が、決定的なのは楽器と音楽の方向性である。

第4交響曲については私はまだ最終的に確信を持てないでいるが、それでもこれを聴くことは喜びである。オーケストラのこの冒頭の音は、ところどころハッとするほど、1935年のトスカニーニとBBC交響楽団の録音をすばらしく生き生きと思い出させる。ノリントン盤はどこもこれほど強引ではないが(冒頭のリラックスしたペースは驚きで、ややがっかり)、すばらしい要素に満ちている。緩徐楽章を告げる木管のコーラスのピリッとした音、最終楽章の中心部における木のフルートの暖かく打ちとけた音色、そして粗削りだが決して力任せにならないトロンボーン。

そう、完璧ではない−けれどもそれは明らかにノリントンの目指すところでもない。彼のあらゆる最良の演奏・録音と同様に、彼は手袋を投げ捨てて挑戦しているのである。我々は伝統に身を委ねて、同時に今日のブラームスの管弦楽演奏の大部分がいかに凡庸であるか、不平を唱えていくのだろうか? あるいは、顔を上げ、作曲家のスコアと記録に残っている注釈と同時代の証言が、過去の偉大な録音よりも、音楽を洞察するためのずっと価値ある源泉となる可能性に目を向けていくだろうか? 彼の録音を偏見を捨てて聴いてみることだ。そうすれば、あなたのブラームスの音についての考えは一変することだろう。

by Stephan Johnson
Gramophone - August 1996

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