評論に見るノリントン

日本ではロジャー・ノリントンはあまり広く知られていませんが、それでもいくつかの論文やレコード評/名曲解説には登場します。そうした評論から、ノリントンについて触れている部分を抜粋して紹介します。

ノリントン/ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ

・・・ノリントンでの響きの多様性には驚くべきものがあって、その点では、ブリュッヘンの場合よりもっと「クラシカルであるが故により新鮮に響く」とでもいってみたくなるような趣がある。ことに管楽器それぞれの音色の際立った違いがより鮮明に出ている点と、弦楽器の音の出し方が、私たちがこれまでききなれていたものよりかなり変化が多くて、それだけ音色的にもいろいろのニュアンスがききわけられるだけでなく、ダイナミックの使いわけもはっきり耳に残るようになっている。しかも、全体として、響きがちっとも重くなく、むしろ軽快で風通しがよくなっているのである。音色の違いが多種多様になっていながら全体はすっきりしているといってもいい。いや、誇張がないだけ、若いベートーヴェンの活力にみちた音楽性が、かえって、生き生きと伝わってくる、というべきだろう。

(吉田秀和:『この一枚 Part 2』新潮文庫、1995年、pp.214-221)

(「幻想交響曲」について書かれた文章のうち、ベートーベンの第2交響曲に言及している部分を引用しました)

今が旬の古楽演奏家たち

・・・当時ロンドンで活躍する合唱団で注目を集めていたのは、ノリントンのシュッツと、当時二十代であったガーディナーのモンティヴェルディであった。両者は互いに良きライバルであり、愛好家たちの人気を二分していた。後者は当時まだ古楽器を用いていなかった。因みにガーディナー、マンロウ、ホグウッドらはノリントンにとってケンブリッジの後輩に当たる。

世界的知名度では、これら後輩たちに先を越された形のノリントンも86〜87年に録音したベートーヴェンの交響曲2、8、9番のCDが注目を浴び、一躍その名が世界に知れ渡ることになる。しかし、その成功も一朝一夕に生まれたわけではない。85年から彼が毎年週末毎に開いてきた古典派の作品を中心とする音楽「体験」シリーズにおける講義、研究発表、公開リハーサルを通しての主要作品の綿密な研究や時代奏法研究の結果が、こうした形として実ったものに他ならない。・・・

(有村祐輔:『古楽演奏の現在』音楽之友社、1993年、pp.22-25)

演奏家の思想

・・・同じ英国のロジャー・ノリントンはことに録音面で、新しい時代の先取りを身をもって実践している。1978年に結成した「ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ」を振って、ベートーヴェンの交響曲全集、ピアノ協奏曲全集をいち早く完成。新旧時代の楽器が混用されたベルリオーズの「幻想交響曲」の、オリジナル楽器での初録音でも話題をまいた。その後もシューベルト、シューマン、メンデルスゾーンの交響曲などを続々と録音している。彼は卒業後オクスフォード大学出版につとめたが、小さな合唱団の指揮を経て「シュッツ合唱団」を結成。次第に活動が増えてごく自然に指揮者となった経歴をもつ。最近その成果によって<CEB>の称号を受けている。

(佐々木節夫:「現代思想」90年12月臨時増刊「もう一つの音楽史」p.417)

現代におけるベートーヴェン演奏の<可能性>

・・・テンペラメントと実験精神旺盛な音楽家であり、モンティヴェルディ以後の合唱曲ばかりでなくモダン楽器による交響曲やオペラで豊かな経験を積んできたノリントンにとっては、歴史的考証に立脚して改めてベートーヴェンを演奏することは、わくわくするようなスリリングな冒険である。アンサンブルの精度にばかりこだわるのではなく、「これらの偉大な傑作を再発見すること」が何よりも優先され、きわめて推進力の強い演奏が繰り広げられる。ここでは洗浄よりもベートーヴェンの蘇生が問題なのだ。(ホグウッドと反対に、ノリントンの冒険がその後、シューベルト、ベルリオーズ、メンデルスゾーン、シューマンや初期ヴァーグナーを経てブラームスの交響曲にまで進み、フォーレやヴェルディの《レクイエム》にまで手を伸ばしたガーディナーとともにオリジナル楽器によるオーケストラ演奏の年代上の最下限に及んでいることは、こうした態度と無縁ではなかろう。)

(森泰彦:『鳴り響く思想−現代のベートーヴェン像』東京書籍、1994年、pp.482-501)

ベートーヴェン 交響曲第3番

オリジナル楽器が、そして時代がもたらした「深さ」に支えられたフレージングの意味を考えながら−

・・・ベートーヴェンからロマン派へ至る19世紀の音楽を一種の「範型」へと祭り上げ、あまつさえそこに至上化された内面的・精神的価値さえ見いだそうとするがごとき「教養主義」的な鑑賞のスタイルは、1960年代にほぼその命脈を断った。それに代わって前面へ出てきたのは、「響き」そのもの、もう少し正確にいえば「響き」の表層への執着という聴き方のスタイルであった。・・・たとえばこのノリントンの『英雄』でだれもが最初に気づく特徴はテンポの速さであろう。ではそのテンポの速さは何に由来するのか。それは瞬間々々の「響き」の分散的・非連続的布置をうかび上がらせようとする志向ではないだろうか。「響き」は「深さ」の支えを失って、自らそのつどのザッハリッヒな簡潔性のみを根拠とする。古楽器が使われるのはこうした「響き」の表層性・非連続性に現代楽器より向いているからだと思う。そこで生じている演奏スタイル上の最大の問題は、「深さ」によって支えられる「ひびき(の意味)」の連続性・有機性とその具体的現れとしての「フレージング」の解体である。・・・・私個人としてはノリントンよりフルトヴェングラーの演奏の方が好きである。ただし私はここでフルトヴェングラーとノリントンのどちらが上で、どちらが下かをいうつもりはない。「深さ」の解体は好むと好まざるとにかかわらず私たちの時代の不可避的な宿命でもあるのだから。

(高橋順一:『クラシックの快楽−新譜&名盤聴き比べガイド』洋泉社、1991年、pp.68-69)

ベルリオーズ 幻想交響曲

時代と楽譜をストレートに再現した醒めたフィクション性を、近代オーケストラの精緻な表現力と対比してみる

・・・この『幻想』の聴きどころが、第一に古楽器の原色的な色彩にあるのは勿論だが、筆者が興味を持ったのはノリントンのストレートな解釈だ。かつてトスカニーニがベートーヴェンのメトロノーム指定に拘って、それまでとは全く違うコンセプトに到達したように、ノリントンもスコアに書かれていない慣習的なアゴーギクを拒否し、頑固なほどの直写主義に徹している。その結果、ベルリオーズに纒わりついていた後期ロマン派の滑らかな語り口が取り払われ、構造上の凹凸が明らかにされた。ここにあるのは幻想やロマンではなく、リアリズムという、醒めたフィクションの面白さなのだ。・・・

(金子建志:『クラシックの快楽−新譜&名盤聴き比べガイド』洋泉社、1991年、pp.148-149)

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