コントラバスの研究

竏茶pトリック・ズュースキントの『コントラバス』を素材として竏鈀

*コントラバスの話」の冒頭に引用したのは、小説『香水』で有名なドイツの作家パトリック・ズュースキントの処女作である『コントラバス』(1984、邦訳:池田信雄+山本直幸、同学社, 1988,ISBN:4-8102-0201-1)です。これは、ミュンヘンの国立歌劇場につとめるしがないコントラバス弾きが、ソプラノ歌手に恋する思いを切々と語るモノドラマで、ベースを巡るさまざまなフレーズが登場します。ちょうど手頃な材料なので、ここに表れる科白をテキストに、コントラバスについて研究してみましょう(ページ番号は邦訳のものです)。

研究

編成

曲はブラームスの交響曲二番、ちょっとしたもんでしょう。このときぼくらコントラバスチームは六人でした。まあ、中くらいの編成ですね。全員そろえば八人。ときには外部からトラを入れて十人になることがあります。(p.2)

オーケストラではおおむねベースの数は第一バイオリンの半分程度。近代の大編成の曲の場合、バイオリンがそれぞれ16、ビオラが12~14、チェロが10~12、ベースが8というものが多い。これは楽器が大きく音のエネルギーが高いので、少ない数でオーケストラを支えることができるためだ。曲が古典のものになれば、もちろんこの編成は小さくなる。

もっとも、アマチュア(特に社会人)の場合、ベースが自前で八人もそろうようなところは少なく、たいていはトラのお世話になるわけだが。

リズム

そしてだれでもいいから、オーケストラの団員をつかまえてきいてやってください。演奏しててとちりはじめるのはいつかって。ぜひきいてみてください。コントラバスの音が聞こえなくなるときだって返事するにきまってますから。(p.5)

ベースは和声の最低音を支えるが、同時にリズム楽器として重要な役割を果たしている。オーケストラの奏者は、意識するとしないとにかかわらずこの低音のリズムを頼りにしてテンポを維持していることが多い。ワルツなどを考えれば明らかだが、通常の交響曲でもこういう箇所はたくさんある。

低音

これがコントラEの音です。もし正しく調弦されていたら、正確に41.2ヘルツ。もっと低い音のでるバスもあるんですよ。コントラCや、それどころかズブコントラHまで。その場合は30.9ヘルツです。(p.11)

オーケストラのチューニングをするAの音が442~443ヘルツ。1オクターブ下がるごとに周波数は半分になるから、ヘ音記号の五線の一番下にあるAの音は110ヘルツ程度である。その1オクターブ下のA、つまりベースのA線の開放弦は55ヘルツ程度、最低音は40ヘルツ程度にもなる。人間の耳が聞きとれる最低音は20ヘルツ程度とされるが、このあたりはぶるぶるという振動音のようになって、もはや音程はほとんど分からない。

高音

高音についていうと、理論的にはどんな高い音でも出せるんですよ。いいですか、たとえば指板をフルに使うと、Cドライが弾けます…(p.12)

弦の長さを半分にしていけば音は1オクターブずつ上がっていき、弦楽器の場合、理屈の上ではどんな高音でも出すことができる。Cドライとは3点Cと呼ばれるト音記号の五線の上に線を2本追加したドの音。コントラCからCドライまでは5オクターブの音域ということになる。通常の曲でここまで高音が要求されることはあり得ないが、ショスタコーヴィチの交響曲5番ではこの5度下の2点F14番ではこの1音下のBが使われていて、大変である。 [楽譜にはト音記号が出現する!]
ショスタコーヴィチ交響曲14番第3楽章254~261小節のベースパート

フラジオレット

フラジオレットっていうんですよ、この奏法。指を軽くのせといて、倍音を鳴らすんです。(p.14)

ハーモニックスともいう。コントラバスは弦が長いのでハーモニックスを出しやすく、音質も良い。ラヴェルのような作曲家はこれを好み、単に高音を弾かせるという目的でなく、独特の効果を引き出すために用いている。例えば「クープランの墓」など。

色々なタイプ

三弦バスは消え失せたんです。永久に。だってそれまでのごちゃごちゃぶりがひどすぎたからですよ。残念な面もありますけどね、音は三弦バスの方がずっとよかったんですから…(p.19)

17~18世紀にはバスガンバ、バスヴィオラ、フレットのついたヴィオローネ、フレットなしのスブトラヴィオローネ、三度、四度、五度調弦、三弦、四弦、六弦、八弦、f字孔、C字孔…という具合に、混沌とした状況であった。現在の四度四弦のバスが勝利を収めたのは、ドイツ・オーストリアではこの楽器が優勢であり、その当時その地域に才能溢れる作曲家が立て続けに出現したからとされる。

コントラバスを弾く作曲家

コントラバスを弾いたたったひとりの優れた作曲家といえば、ブラームスでした … それともあれはブラームスの親父の方だったかな。(p.21)

ヨハネス・ブラームスがベースを弾いたという話は聞いたことがないが、彼の父親は確かにハンブルク・フィルハーモニーのバス奏者であった。因みに指揮者はベース出身者が結構いて、最近ではズビン・メータなどがそうだ。

住宅環境とコントラバス

コントラバスってやつは、遠く離れれば離れるほどよく聞こえる唯一の楽器でしてね、そこに問題ありなんですよ。見てください、ぼくはこの部屋の壁、天井、床の全てに防音パネルを張ってるんです。(p.23)

自宅で楽器を弾くときに困るのが騒音=近所迷惑の問題。最近、金管楽器用にはヤマハが優れた装置を発表して解決の目途が付いたといわれるが、コントラバス用にはそうした消音装置は発明されていない。ミュートを付け、床に座布団を敷き、窓を閉め切ってこっそり練習するのはなかなか辛いものがある。かといって、河原にかついでいって弾くこともできないし…(我が家では、今のところ近所とのトラブルには至らずに済んでいる)。

コントラバス用にも、2000年11月、同じくヤマハから「サイレントベース」が登場した。指板の部分は実際のベースとほぼ同じつくりで、胴体がくりぬかれたような形だ。弦も実際と同じものを張るから、確かに練習はできそう。重量は10Kgあるが、胴体枠を取り外して分解できるので、持ち運びは便利かも知れない。もっとも、価格が32万だから、手軽とはとても言い難いが。

速い六連符

この上行音、実は五連符と六連符なんですよ。六つの別々の音を、こんなすごい速さでなんて! 絶対に弾けっこない。(p.31)

これは『ワルキューレ』の冒頭についての愚痴だが、実際コントラバスで細かく速いパッセージを弾くのは至難の業で、しかも低音でこういう走句を奏でても聞こえるわけもない。作曲家は単なる効果音としてこういう音符を書いているケースがよくある。たとえば『田園』の4楽章の嵐の部分。チェロが五連符でF#からCまで動く間にベースは16分音符でF#からBまで動く。和声上は当然、破壊的な響きだが、猛り狂う嵐の感じがでればよいのである。

体力

ま、なんというか、オケの中でもいちばん頑張らなくちゃやっていけないパートを受け持っているってことなんでしょうね。ぼくなんか、コンサートが終わった後はいつも汗でびしょびしょ。(p.32)

ベース弾きは、やはり体力勝負か。京大オケのベースパートでは、演奏会の前にみんなで「リポDスーパー」を飲み干してからステージに向かうという習慣があった(今はどうだか定かでない)。

スペース

車の中に入れるためには、助手席のシートを取りはずさなけりゃならないし、中に入れたら入れたでもう車は満ぱいです。家でだっていつもこいつに気を使ってなきゃなりません。こいつは…そう、なにかと目立つ所に突っ立っているんです。(p.34)

音の問題と並んでベース弾きを悩ませるのが図体の問題。なにしろでかいから、運ぶのは車が必須だし、家に置くにも場所をとってしようがない。助手席に楽器を置いて女性を後ろに乗せようものなら、首を絞められかねないから、私はワゴンタイプの車を使うことにしている。また、車で楽器を運ぶと練習後、みんなと飲みに行けないという深刻な問題もある。ベース弾きの苦悩は尽きない。

女性的

ドイツ語の文法上の性別は男性ということになってますけど、コントラバスは女性的な、そしてまじめそのものの楽器なんです。(p.45)

コントラバスの形が女性の体のようで、ベース弾きは演奏中、女性を抱きかかえたつもりで恍惚となる…などということを言っているのではない。オーケストラを支える低音楽器は、豊穣さや母なる大地といった性質を持つという深遠な話をしているのだ。作者はここで一歩踏み込んで、女性とコントラバスと「死」を結びつけているが、このあたりは読者に委ねておく。

ちなみに、最近は女性奏者の進出が著しいが、これもまた別の話である。

指のポジション

こいつを弾くんだってもううんざりなんです。だってこうやって手のひらを目いっぱい広げても、半音二つ弾くのがやっとなんですからね。半音二つですよ!(pp.51-52)

バイオリン、ビオラ、チェロは、隣り合う指の間隔で全音を難なく取ることができるが、コントラバスは半音しか届かない。しかも、通常は薬指は使わず、人差し指、中指ときたら次の半音は小指を使って押さえることになる。これが、主人公の言う「半音二つですよ!」ということだ。だからコントラバスでは必然的にポジション移動が多くなり、同じ楽譜でも他の弦楽器に比べて演奏がずっと困難になってしまう。

ソロ楽器としてのコントラバス

だからコントラバスの独奏なんて、バカバカしい思いつきでしかないんですよ。この150年間に演奏技術が徐々に向上し、コントラバスの協奏曲やソナタや組曲が書かれたのは事実だし、あるいはこれから先天才がでて、コントラバスでバッハのシャコンヌやパガニーニのカプリチオを弾くようなことがあるかもしれません。(p.54)

ここでは主人公はかなり自虐的になっているが、ベースのための曲は地味ながらいくつかある。これについては滝雄司氏のページのリストを参照。個人的な趣味としては、ソロを弾くよりも合奏の低音を支える方がベースの醍醐味が味わえると思う。

シューベルト『鱒』

そう、『鱒』なんか最高の作品ですよ。音楽的な意味でも、それを弾けば名人とみなされるという点からいっても、コントラバス奏者にとって夢の作品なんです。(p.59)

シューベルトのイ長調のピアノ五重奏曲。この種の曲は弦楽四重奏にピアノを加えるようなものが多いが、この曲はバイオリンが1本しかない代わりにコントラバスがメンバーとして迎えられている。4楽章の変奏のテーマは特に有名で、ベースのソロも快活で魅力十分。ほかにベース奏者が夢見る室内楽といえばベートーベンの七重奏曲などかな。

超絶技巧

テクニックをごらんになりたいのなら、コントラバスのパガニーニといわれたボッテジーニの作品をどれでも弾いてお聞かせしますよ。(p.94)

ボッテシーニに関してはBottesini: A Lifeを参照。

ソリスト

だってフリーのコントラバス奏者なんてありえないからですよ。そうでしょう?(p.102)

実際には、ゲイリー・カーのように、コントラバスの専業ソリストとして活躍している人もいる。が、やはり多くはオーケストラの首席をつとめながら、合間にソロ活動をすることになるだろう。ベースソロの市場はまだ成立しているとは言いがたい。

補足

【注】トラ:エキストラ奏者。正規メンバーだけではまかなえないときに、知人や紹介されたプロを呼んで支援をお願いする。助っ人。

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