朝日新聞の12/13付夕刊に掲載された「回顧2001音楽」の記事。

重厚長大な音は過去の流儀なのか。…ビブラートを極力抑え透明感ある和声をつくるなど古楽の要素を取り入れ、テンポや音色をフレーズごとに大胆に変える。…大型リムジンではなく軽量級スポーツカーのように、乗り心地より疾走感に重きを置いた造り。メジャー最後の伝統派といえるウィーン・フィルですら、このスタイルと無縁ではいられない。細部を丹念に磨き上げることで、音楽はともすれば連続した音の流れというより、独立したフレーズの集合として聞こえてくる。アナログ的な音からデジタル的な音への転換は時代の要請なのかも知れない。

こないだの間宮芳生の評と同じようなことを書いてる。ピリオド楽器演奏の成果を取り入れたクリアなスタイルへの志向が、(絶対の真実なんてものではなく)今という時代における「現象」であるというのは、おそらくその通りだ。しかし、「デジタル的な音への転換」ですか、これは。そんな貧困な発想で音楽の表面をなぞっていないで、埋没していたフレーズが聞こえるようになることの意味をもう少し考えてみた方がいいぞ。

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