チャイコフスキーの幻の交響曲「復元」?

チャイコフスキーが1891~92年に手がけたものの、交響曲としては未完成に終わり、ピアノ協奏曲第3番(1楽章のみ)に作り替えられた変ホ長調の作品は、残された素材をボガティレフがオーケストレーションして「交響曲第7番」として1950年代に発表し、録音もいくつか出ている。これをもう一度、補作して「復元」しようという試みが、2005~06年に行われた。

補作の経緯

2005年2月に《幻の交響曲「人生」が、モスクワのチャイコフスキー財団*1などによって補作され約百十年ぶりに完成する》というニュースがモスクワ発の共同通信によって配信された。もちろんこれは、まだ誰も知らなかった未公開作品が発見されたという事件でもなければ、完成しながら楽譜が失われた作品を「復元」するものでもない。すでに50年前にボガティレフが行なった、スケッチなどに基づく補作・編曲作業を、別の形で再度やってみようという話だ。チャイコフスキー生誕165周年記念だという中途半端な説明もなされていたが、なぜ今もう一度なのかはよく分からない*2。客観的なニュース価値はその程度だから、日本以外では特に話題になった形跡はなさそうだ(2005-02-11付NYTのArts, Brieflyなど、共同の英文配信を受けて短く紹介した例はある。ロシアでは演奏会の紹介や批評はあった)。

楽譜の表紙にはP.I.チャイコフスキー 交響曲「人生」とロシア語で記されている。
クリモフ版スコアの表紙(部分)

再補作・編曲は、ロシアの作曲家ピョートル・クリモフ(クリーモフ;Петр Климов : Pyotr Klimov, 1970-)が担当。ボガティレフの場合とは異なり、3楽章構成での「復元」となった。「幻想的スケルツォ」のスケッチが交響曲のために書かれたことを示す資料が無いという理由からだという(引き算で行けばそういうことかも知れないが、3楽章形式が「当初作曲家が予定」していたとか「作曲家の意図に最も忠実なスタイル」であるというのはかなり疑問だし、報道資料でも積極的な根拠は示されていない*3)。

3つの楽章に関してはかなりの素材が残されており(2002年発刊のThe Tchaikovsky Handbookに基づく一覧を参照)、クリモフは「実際のところ、私がやったのは、第2、第3楽章のオーケストレーションと、1楽章で不足していた僅かの部分を補足することだった」と述べている。Handbookのリストを見る限り、第2楽章は204小節中チャイコフスキーの草稿が81小節分しかなく、ボガティレフはかなり苦労したと伝えられているが、「作曲家、音楽研究家らのグループ」がどんな素材を発掘したのか、興味あるところだ。

「ジーズニ」の演奏

5月8日の演奏会を紹介するテレビ番組。
スコアを追いながらリハーサルを聴くクリモフ(右)と、指揮するシナイスキー(左)。ロシアの民放NTVの画面より。

当初は2005年のチャイコフスキーの命日(11月6日)に完成披露するという目論見だったようだが、この時点ではクリモフの作業が完了せず、報道によれば第2楽章のみを演奏[*8]。最終的には、2006年5月8日にワシリー・シナイスキー指揮、ロシア交響楽団*4によってモスクワで3つの楽章が演奏された*5

クリモフ版は、チャイコフスキーが最初期のスケッチに記入したことばに従って「Симфония жизнь(交響曲 人生)」と題されている。だが、このスケッチに書き込まれたプログラムはむしろ《悲愴》に引き継がれたとみるのが妥当で、ロシアNTVのインタビューに、博物館の主席研究員も「この交響曲に名前は本来ないのです」と答えている。

日本では、TBSが主催してこの交響曲の「日本初演ツアー」を実施するというので、CS放送で特番を何度も組んだりして盛んにPRが行われた。日本だけで特別に賑々しくこの補作が報道されたのは、言うまでもなくこの興行と連動した仕掛けによるものだろう。「人生」ではインパクトがないと思ったのか、жизньをカタカナ表記して「ジーズニ」として宣伝*6。そのうえ「衝撃の日本初演」というワイドショー乗りの謳い文句で、失笑を買った*7

テレビで一部流れた演奏の様子を聞くだけでも、メロディや和声といった骨格は、ボガティレフ版やピアノ協奏曲第3番(+Andante and Finale)のCDで耳にするものと基本的には同じで、「知られざるチャイコフスキーに出逢う」という類のものではないことが分かる。チャイコフスキー自身がピアノ譜まではほぼつくっていたのだから、当たり前なのだが。

「ジーズニ」の評判

ロシアのКультура Портал(文化ポータル)サイトの週刊文化ニュース2006年第20号(5月25-31日)に「Цена "Жизни" ПЕРВОЕ ВПЕЧАТЛЕНИЕ」(「人生」の値打ち 第一印象記)という批評が掲載されていたので、覚束ないながら抄訳してみる(大意をとるのが目的で、細部の精度は保証の限りではないので、よろしく)。

古典遺産に手を触れたり時計を逆に回してみたいという望みは抗いがたいものだ。しかし、ワーグナーがベートーベンの総譜をいじくったのから、シューベルトの「未完成」やマーラーの第10交響曲の“再構築”に至るまで、これらはいずれも興味深い試みにとどまってきた。これがもう一歩進むと、深刻な問いが発せられることになる。作曲家自らが否定した作品を「蘇らせる」ということが必要なのだろうか? 天才芸術家の“良くない”という直感を信頼せずに?

チャイコフスキーの変ホ長調交響曲の場合は、答えは、たぶん、明白に作曲家の側に軍配が上がる。背景を振り返っておこう。チャイコフスキーは第5交響曲の後に、総決算となる交響曲を作ろうと取りかかったが、作曲の過程でそれには相応しくないことがはっきりしてきた。それでも協奏曲なら使えると考えて、第3ピアノ協奏曲に作り替える。ジロティあての手紙から分かるように、彼は3楽章の協奏曲を考えていたが、第1楽章しかオーケストレーションする時間がなく、それがユルゲンソンから出版された。第2、第3楽章のピアノ譜は、モデストの求めによってタネーエフが後にオーケストレーションし、作品79として出版された。

これらはピアノ協奏曲として考えられたことがはっきりしており、ここから逆算して交響曲を作るという、ボガティレフやクリモフの試みは、〔作曲家の考えではなく〕彼らの独自の考えだ。作曲家が〔交響曲ではないという〕異なる決断をしたのなら、その意図を尊重すべきだろう。実際、演奏会で響いた音からは、補作版交響曲は非常に弱い(слабой)ことが明らかになった(特に展開部は単調な構成であった)。第3ピアノ協奏曲では、ソリストの技巧を華やかに披露する華麗な部分であるところが、まったく違う簡約化されたものになっていた。

〔以下、それでも当日の演奏は、シナイスキーの指揮によって見るべきものがあった云々の演奏評が続くが、省略〕

Yevgeny KRIVITSKAYA

主催者の資料を流用した紹介記事ではない、独自の批評を見つけたのはこれが初めて。一つの記事だけで評価を判断するわけには行かないが、いわば“お約束”の反応だから、同様の意見は少なくないと思われる(すぐに「チャイコフスキーを冒涜している」とかいう話が出るでしょ)。一方で、作品は原作者だけのものではないというのも、また真なのだけれど。

  1. ここで「チャイコフスキー財団」と記されているのは、Association of Tchaikovsky Competition Stars (ATCS) という団体の一部門で、ニューヨークの(にあった?バレエ関連の)チャイコフスキー財団とは別物。ATCSは、クリモフ補作版の演奏を担当するロシア交響楽団(Russian Symphony Orchestra)や、“若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール”(1958年から行われているチャイコフスキー国際コンクールとは別)も運営している。

  2. チャイコフスキー生誕165周年と銘打ったバレエ公演がロシアなどではいくつか行われたようなので、あり得ないことではなさそうだが、取って付けた感じは否めない。現在進行中の新チャイコフスキー作品全集にこの変ホ長調の交響曲も収められる予定で、もしかするとその一環かとも考えたが、国際チャイコフスキー協会はこの件にまったく言及していないし、クリモフ版は「楽譜出版がなされる予定はない」そうだから、別の話だろう。また、この「復元」はチャイコフスキー財団と国立クリン・チャイコフスキーの家博物館の共同事業ということで、博物館ホールで演奏ともされているのだが、博物館のウェブサイトに情報のかけらもないというのも解せないところだ。日ロ文化交流という名の、ジャパン・マネーによるメディア・イベントだという見方もある。

  3. 日本ツアーのパンフレットを見せてもらったところ、「2005年3月15日、チャイコフスキー記念財団による公式発表時の資料より」というページに次のような一節があった。

    …〔ボガティリェフは〕『スケルツォ風幻想曲』を3楽章に使用したが、チャイコフスキーがこの交響曲『ジーズニ』にそれを用いることを意図していたという情報はどこにもない。

    「チャイコフスキーの人生」という著書の中で、チャイコフスキーは最初のアンダンテとフィナーレのスケッチは存在すると書いている。この交響曲変ホ長調は3楽章からなる作品であると理解するのは必然的であると言えよう。

    おやおや、何とも紛らわしい書き方(訳し方?)だが、『チャイコフスキーの人生』とは弟モデストによる伝記(Модест И. Чайковский, "Жизнь П. И. Чайковского", Moscow, 1900-02)のことだろう(P.I.チャイコフスキーは、1889年に短い自伝的エッセイを書いてはいるが、自らの人生を語る書物は著していない)。同書には、少なくとも英語版を見る限り、付録の作品リストの最後に“チャイコフスキーの死後にクリンに次のような作品が残されていた”という付記があり、そのひとつとして「ピアノと管弦楽のためのアンダンテとフィナーレ。両楽章とも、チャイコフスキー自身によって、1892年に計画された交響曲のスケッチからアレンジされた。オーケストレーションはタネーエフが行い、1896年2月8日のベライエフの最初のロシア交響曲演奏会で初演された。云々」と記されているだけだ(もちろん、手紙にはいくつか草稿の話が出てくる)。

    チャイコフスキー兄弟を(意図的に?)混同したり、「アンダンテとフィナーレ」があったというだけのことで変ホ長調が3楽章であると結論づけたりと、これは相当乱暴な文章だと言えよう。モデストを持ち出すなら、ボガティレフ版のLPのライナーノートには、「ボガティレフが4楽章にしたのは、モデストが常に交響曲は4楽章であるという見解を抱いていたからだということです」と記されているように、全く逆の説明だってできるのだ。

  4. ロシアのオーケストラの邦訳名は紛らわしいものが多いが、このRussian Symphony Orchestra (Русский Симфонический Оркестр) は、CDも出ているSymphony Orchestra of Russia (Симфонический Оркестр России:いわゆるドゥダローヴァ響)や、スヴェトラーノフのいたロシア国立響(State Academic Symphony Orchestra of the Russian Federation; Государственный Академический Симфонический Оркестр Россия:旧ソヴィエト国立響) とは別の団体(ただし、共同通信が2005年2月に配信した「復元」の英文記事ではSymphony Orchestra of Russiaと(誤)記されている)。近頃(日本で)は「チャイコフスキー財団・ロシア交響楽団」と表記しているようだ。

    この「ロシア交響楽団」を“チャイコフスキーコンクールの伴奏を担当”と紹介しているところがあるが、本家国際コンクールの伴奏はロシアの主要オケが各部門を分担して受け持っており、少なくとも2002年の本選にこのオーケストラの名前はない。「若い音楽家のためのチャイコフスキーコンクール」と混同しているところもありそう。

  5. TBSでは、この前日5月7日にクリンのチャイコフスキーの家博物館で演奏する様子がニュースとして放映された(毎年作曲家の誕生日には、クリンの博物館でカンファレンスやミニコンサートの催しが行われる。もっともこの日の定例催事報告ページにあるのは、2004年の火事の跡が修復されてきれいになったとか、管理棟が新しくできたといった話のみ)。一方で、これは内輪の催しという位置づけなのか、ロシアではKMNewsが「タモミ・ミシモトが交響曲“人生”のリハーサルをモスクワの演奏の前に行い、その後5月中旬に日本ツアーに出かける(原文:Тамоми Мишимото репетирует с оркестром симфонию "Жизнь" перед ее исполнением в Москве. Затем, в середине мая, гастроли оркестра с симфонией в Японии)」と記していた程度で、シナイスキー指揮の8日の演奏会しか報道されていない(時事通信は、8日の演奏を日本人指揮者によると配信する始末。現場を見ないで配付資料と聞きかじりの情報だけで記事を書き飛ばすとこういうことになる)。この情報の落差に加え、同じ新編曲譜を二人の指揮者で演奏するという不可思議な状況は一体何か? 少なくとも「ロシアが誇る作曲家の作品の“初演”を、ロシアのオーケストラを指揮する日本人指揮者に託する」なんてお目出度い話は、ロシア側では微塵も考えていないということだけはよく分かる。音楽とは別の次元で、様々な思惑が飛び交っているのだろう。

  6. жизньは単に「人生」ではなく、「生活」や「生命」の意味もあるから、単純には日本語に置き換え難いということは、もちろんある(チェーホフの「Моя жизнъ」は『わが生活』だ)。しかしそれを言い出せば、外国語の翻訳は全てそうであって、「田園」はパストラーレと表記するしかないし、「悲愴」はパテティーク(あるいはパテティチェスカヤ)と呼ぶほかないことになってしまうのだ。

  7. 「世界中から注目を集めた」「音楽史上に残る」「歴史的瞬間」「ロシアの国家的なプロジェクト」「100年の時を越えて完成」といった赤面ものの超・誇大広告も、ワイドショーだと思えばそう目くじらを立てることもないかも知れない。たとえ人気指揮者目当てであったとしても、普段クラシックとは縁が薄い人を演奏会場に惹きつけたという効用を考えれば、とりあえず苦笑しておくしかないか。とはいえ、この延長で「ジーズニを聴かずして、チャイコフスキーは語れない」などと寝言を言うのは、救い難くはしゃぎ過ぎ。いい加減にしたまえ。

  8. (追記)2006年11月に発売された日本ツアーDVDには特典としてTBS制作のドキュメンタリーが含まれ、2005年11月に第2楽章がクリン・チャイコフスキーの家博物館ホールで演奏されるまでの様子が収録されている。作品「復元」の是非はともかく、作曲家をより深く知りたく、従来にない資料があるなら音にして聴いてみたい、という演奏家や愛好家の気持ちは素直なところだろう。

    第2楽章リハーサル(クリモフ同席)
    クリンでの第2楽章演奏会