ブラームス交響曲3、4番
96年5月にブラームス交響曲3、4番が発表されました。今回は幸か不幸か国内版の発売がないようなので、「国内版先行」というナンセンスで迷惑することなく入手することができます。
ブラームスの交響曲はすでに1、2番を録音しているので、彼の音づくりに関してはある程度心(耳?)の準備もできているのですが、やはり3番の1楽章の速めのテンポやメリハリの利いた管楽器は新鮮です(繰り返しをしながらも3、4番が1枚のCDとはやはりかなり速いテンポ)。バーンスタインの耽美的な演奏とは対極的で、どちらが良い悪いということではなく、比較すると大変興味深いと思います。
(渋谷タワーレコードの推薦カードには「打倒後期ロマン派! 打倒巨匠崇拝!」という勇ましいフレーズが・・・)
ノリントン自身による演奏ノートは基本的に1、2番のものと同じ(楽器や演奏についてはこちらに詳しく書かれています)ですが、曲目そのものの解説は当然異なりますので、その部分だけ緊急翻訳します。 また 英グラモフォン誌のCD評 もご覧ください。
第3交響曲はシューマン風の快活さで始まる。そのテンポと速さの啓示を「ライン」や「エロイカ」から得ているというのは予期できないことではない(ブラームスもまた数秘主義者numerologistであった)。しかしF-A-Fの音形(Frei aber froth=自由にしかし楽しく=をあらわす)による高らかな宣言は2回にわたって今にも戦いに敗れそうになり、したがって救いが必要となる。アンダンテが取り上げているのはまさにその反対(Frei aber einsam=自由にしかし孤独に)だ。軽やかな(touching)長調で始まるが、次第にシリアスになり、疑いの気持ちを抱き、沈鬱にすらなっていく。伝統的なダンスの楽章は悲しみに満ちたワルツであり、トリオすら短調になっている。交響曲は喜びにあふれ決然とした最終楽章によって悲劇的な底流から呼び戻される。アンダンテの沈鬱な要素は解き放たれ、ついに最後には融和されるのだ。しかし、そうではあっても、私たちが最後に耳にするのは、穏やかな、しかし枯れ果てた日没の輝きである。自由であることの代償は、同時にあまりに大きいのかもしれない。
このような沈鬱な、悲劇的な色彩は、第4交響曲の冒頭でも聞かれるが、しかし今度は回復の手だてはもっと手近にあるようだ。歴史のセンスと個人の芸術的集成の喜ばしい応用は驚嘆すべき仕事を成し遂げる。たとえ彼が若さと純粋さと女性たちを失っていたとしてもだ。最初から、第1楽章は強靭なパッサカリアの形式の牽引力を感じる。悲しみは豊かになり、エンディングは意気揚々と勝利を告げる。アンダンテ・モデラートはその感情を、ブラームスがこれまで書いた中でもっとも心温まる音楽で、前に進めていく。かたやダンス楽章は歓喜に満ちた雰囲気に転じる。聴衆はこの第3楽章がフィナーレなのだと思ってもしかたないだろう。そして、その完結性は特別な目的があることが明らかになる:これによって、最後のとてつもない楽章が始まる前に、交響曲の仕事の大部分が片づけられる。その結果、ブラームスはリラックスし、バッハのシャコンヌに捧げられた彼のパッサカリア(30回の8小節の変奏)、そのアルカイックな力、挑戦的なオプティミズムを誇らしく示すことが出来るのだ。そしてこの「聡明な」音楽すらも劇的である──彼のほかの交響的作品と同様に劇的である。もし我々が悲劇とともに生きねばならないのであれば、この作品はこう言っているのではないか。我々は少なくとも、音楽の伝統に精通し断固として使うことによって、悲劇に立ち向かい、それを手なずけ、克服できるのであると。ブラームスの4つの交響曲は、偉大な魂の比類ない肖像なのである。