今度お手伝いする演奏会は、冒頭がブラームスの悲劇的序曲。このところアクロバット的な曲が続いていたので、嬉々としてさらってみたりしている。

悲劇的序曲は、アーノンクールがBPOとのブラームス交響曲全集のブックレットに寄せた対談の最後で、大学祝典序曲と合わせて These two overtures deserve to be taken far more seriously than they are. と述べているように、CDの録音は交響曲のついでに適当に演奏したとしか思えないものが大半だし、演奏会のプログラムでは露骨におまけ扱いされていることが少なくない。しかしこの曲は、ブラームスが長く構想をあたためて書いた重厚なソナタ形式の音楽で、交響曲の1楽章に匹敵する内容を持っている。なめてかかってはいけないのだ(含反省)。

さて今日の練習は、個人的にはお初にお目にかかるマエストロなのだが、なかなかいい感じであった。(当然ながら)悲劇的序曲にいちばんたっぷり時間をかけ、各パートに然るべき指示を与え、アイコンタクトもきちんと取っていらっしゃる。柔和ながら適度な緊張感が漂っているのもいい。

だがしかし、よくありがちな「歌って」君が顔を出しちゃったのは、ちょっと残念。第2主題の最初のフレーズで休符が入るところを、「そこで切れ目を入れないで、もっと長いフレーズにして歌って」という趣旨のことをのたまうのである。

第2主題は2小節目の3拍目に休符があり、フレーズがおさまる

ブラームスがここで休符を入れているのは、「あのね、」とささやくときのような間合いを求めているわけで、音を続けて欲しかったら3小節目以降のように長い音符を書くはずだ。再現部にビオラで同じ主題が現れる時に、2小節目の前半にはデクレシェンドが加えられていることからも分かるように、ここはいったんおさめて一呼吸入れるフレーズだろう。これを「長いフレーズのように歌う」などというのは、句読点の入っている台詞を棒読みしなさいと言っているようなものじゃないかいな。と思っていたら、案の定、その結果としてバイオリンのみなさんが奏でたのは、ワーグナーもどきの節回しなのであった。

ブラームス、あるいはその友人ヨアヒムは《フレージングは「話すように」》ということを重視していた。交響曲第1番の終楽章主題や、第2番の1楽章第1主題のような、一見息の長い旋律も、数小節単位のフレーズの語尾を「話すように」おさめることで、親密な対話のようなニュアンスが生まれてくる。悲劇的序曲の場合なら、3小節目以降もスラーの単位でフレーズを区切ってもいいぐらいだろう。無闇にフレーズを長く取ろうとすると、語りのニュアンスとはほど遠いものになってしまうのだ。

これは、今日のマエストロに限ったことではなくて、多くの指揮者は espress. という標語を見ると条件反射のように長いフレーズを要求する。マエストロは「もっとビブラート」などと言い出さないだけの節度は持っておられるようで、ありがたい。たぶんこの場面では、フレーズの最後の音を大切にということを言いたかったのであろう。それはそれで、大切なこと。

全体的には久々にいい感じのブラームス序曲が演奏できるかも知れないので、期待を込めて今後のご指導に注目する次第である。と思ったのだが、ちょっと買いかぶりだったか。でも次回はオール・ブラームス・プロなんですけど…。

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