飯守泰次郎さん、なかなか面白いじゃないか(前評判とか、人の噂というのはやはりあてにならない)。イタリアのヴェリズモ・オペラをやるということもあって、比較的馴染みのあるドイツ系の音楽作りとは相当毛色が違い、とにかく「歌」ということに徹底的にこだわる練習だった。ドイツ音楽に歌がないというわけではもちろんないが(しかし独墺もの、特に古典だと、歌うというより「語る」という要素が強い)、ラテンの血が流れる歌は、なんというか迸るような感情の表現が生命線で、飯守さんはそこを妥協なく追求する。

これまでの経験では、流れを作ったらあとはオーケストラの自発性というか音楽が進んでいくのに任せながら要所だけ締めるという指揮者が多かった(そういうタイプの演奏の方がうまく行った)。それに対し今回の飯守さんは、細かい表情をすべて指揮で表現しようという感じで、それにオーケストラが少しでもついていけないと何度もやり直し。しかも、単に譜割通りにきちんと演奏したというだけでは不十分どころかむしろ減点で、どうやって歌をつくるか、そして伴奏はいかにそれにぴったり寄り添うかを常に求められる。注意されるのはきまって「その優等生の殻を脱ぎ捨てて」ということだ。オペラでソリストが自在に歌うのにつけるというのは当然だが、それだけではなく、オーケストラだけの部分、合唱の部分など全てにおいて、動きの、揺れのある(しかし独りよがりでなく指揮者の指示にきちんと応えている)「歌」が要求されるのだ。

指揮が分かりにくいというのは、まぁ確かにその通りのところもある。しかしそれ以上に、常に表情やテンポを変化させながら音楽を作っていくという飯守スタイルに、我々素人がぜんぜん追いつけないというのが大きい。指揮をじっと睨んでいると、その言わんとするところはよく伝わってくる。ただそれが、実に微妙な動作で示されたりするので、完全にフォローするには楽譜を暗譜して指揮者とにらめっこするしかないと言ってもいいほど。これを実行するのはなかなか大変で(マスカーニを弾くのは今日がはじめて)、神経をつかって消耗した。その分、今までにない体験で楽しかったけどね。

レスピーギの「松」では、和音の変わり目で情景をがらりと変化させるという、映画のモンタージュ的な切り替えを強調されて、なんども練習した。興味深かったのは、「ジャニコロ」に入る直前の長い音価で和音が遷移していく箇所で、「絵画の刷毛をかえすように」音を処理していってくださいと指示されたところ(これは前回の練習)。なるほどな、そうやって和声の色彩感をきちんと確認しながら、音の景色が移り変わっていくというわけだ。「松」でももちろん、細かな歌の表情を重視して、単なる楽譜通りだったり棒についていかないとつかまるという飯守流は健在。

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