ブラームスの交響曲4番とピアノ協奏曲2番を演奏するという僥倖に恵まれたからには、やはり自筆譜に書き込まれたテンポ指示について考えておかねばなるまい。ブラームスはこの2曲のスコアに、自分自身以外の指揮者へのガイドとしてテンポの変更に関する指示を注記したことが知られている。これらは「曲がまだ十分知られていないときにのみ必要なもの」として出版譜からは取り除かれているが、作曲家の考えを垣間見る貴重な情報であることには違いない。パスコールとウェラーがこれらを詳細に分析した論文 Flexible tempo and nuancing in orchestral music: understanding Brahms's view of interpretation in his Second Piano Concerto and Fourth Symphony(in Performing Brahms, 2003, Cambridge University Press, ISBN:0-521-65273-1)に基づき、その内容を確認してみよう。

ブラームスが独奏を担当したため指揮をエルケルに任せたピアノ協奏曲第2番には、次の書き込みがある。

第1楽章
  • 27-29小節:poco rit. - - - - in Tempo.
  • 118小節:(animato) ~ 128小節:(poco sostenuto) ~ 133小節:(in tempo)
  • 213小節:un poco animato ~ 238小節:in tempo I. Tempo I.
  • 286小節:(sostenuto) ~ 291小節:(in tempo)
  • 332小節:(un poco sostenuto) ~ 342小節:(animato) ~ 355小節:Tempo I

最初はピアノのカデンツァから全合奏に入る前のごく自然なリタルダンド。2番目は第2主題に入ったら最初はやや速く、ピアノが加わって少し遅めにして、フルートとの掛け合いが終わったら元のテンポに戻すことを示している。3番目は同じ第2主題の付点リズムが展開される部分でテンポを速め、冒頭の動機がff の全合奏となるところで元に戻す。4番目は提示部の第2主題と同様だが、主題の最初でテンポを速める指示がないところが異なる。最後は、コーダに向かう前の経過部でテンポを落とし、ff から速く、ピアノのソロが主導する部分から元のテンポという指示だ。

第2楽章
  • 63-65小節:un poco sostenuto ma sempre agitato ~ 92-94小節:un poco calando -- Tempo ~ 102小節:Tempo I
  • 216小節:(poco meno presto) ~ 232小節:in tempo

前者は、ピアノによる第2主題の後半から、アジタートを保ちつつ少しテンポをゆるめ、冒頭にリピートする10小節前からテンポを戻すことを示している。後者は、中間部の後半、ff の全合奏が終わってカデンツァ風のピアノソロになる部分は少しテンポを落とす(あるいは急がない)ことが書き込まれている。

(第3楽章には書き込みはない)

第4楽章
  • 36-39小節:poco - a - poco animato ~ 59-63小節:poco - a - poco in tempo
  • 161-165小節:un poco strin - gen - do in tempo
  • 221-224小節:p dim e poco rit ad lib
  • 271-274小節:poco - a - poco animato ~ 301-305小節:poco - a - poco tempo I

最初は、第1主題が展開される部分は、f に向かって徐々に速くして行き、第2部に移行する部分ではdim に合わせてテンポを落として元に戻す。2番目は、パスコールらは第1主題が回帰して第3部が始まる部分に向けて徐々にテンポを上げると読んでいるものの、その前にテンポを落とす指示はない(イ短調の旋律でゆっくりになっているというのはありがちだが、63小節の場合はin tempoとされている)。3番目は印刷府にも記されているピアノソロのrit.がやや手前に書かれていたもの。4番目は基本的に最初と同じことだ。

ベルリンで第4交響曲を指揮するヨアヒムのために、ブラームスは次の書き込みを送った。

第1楽章
  • 393小節:ベースの4拍目の下にpesante、さらに395小節目に(Nicht eilen bis zum Schluß!)

コーダの部分は重く、最後まで急がずに。pesanteはいいとして、Nicht eilen bis zum Schluß! は意外に思うかも知れない。

(2、3楽章は書き込みはない)

第4楽章
  • 54-57小節:- - sost - - - largamente ~ 65小節:in tempo
  • 153小節:pesante ~ 191-193小節:animato ~ 213-217小節:- - - - - tranquillo
  • 249-252小節:sost - - - - -
  • 297-301小節:(sost. - - accell.)

最初は、第7変奏に向けてテンポを落とし、第8変奏で元に戻す。2番目は第19変奏で重く、再現部の24変奏でテンポを上げ、ト長調になる第27変奏に向けて穏やかにしていく。3番目は出版譜にPoco ritard.- - - と書かれているのと同等。4番目は、コーダでホ短調が確保されて半音階進行で上下に拡がる部分のテンポを落とし、その後一気にアクセルをふかすという指示。

ブラームスはヨアヒムに宛てた手紙に「作品が十分血肉となったらこうした話は無用で、余計なことをするとかえって非芸術的な結果になる」と書き、出版譜からはこれらを削除した。したがって、このテンポ変化の指示を、今そのまま受け入れるべしという結論にすぐ至るわけではない。実際、ブラームスから信頼の厚かった指揮者シュタインバッハのメモでは、第4交響曲の場合、これらの書き込みとはほとんど逆ともいえる注意書きが残されていたりするほどだ。

それでも、我々は「作品を十分血肉」にしているかというと、実はCDなどで聴いた演奏の印象が染みこんでいるだけかも知れない。それならば「曲がまだ十分知られていない」状態に近いとも言え、先入観を捨てて、ブラームスの書き込みを念頭にスコアをもう一度読み直してみるのは、無駄なことではないだろう、と思う。

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