マーラーの交響曲第6番の第2楽章と第3楽章について、2003年10月に「楽章順はAndante - Scherzoとする」と国際マーラー協会が宣言して話題になったが、協会の件のページを見ても、変更の経緯ははっきりとは書かれていない。何がどうなったのか不思議に思っていたところ、あのギルバート・キャプラン(VPOを指揮して「復活」を録音しちゃったマーラー・フリークの実業家)が2003年12月14日のニューヨーク・タイムズにRestoring Order in a Cataclysmic Symphonyという記事を寄稿しているのを見つけた。それを読むと、ミステリー小説もどきのどんでん返しで順序入れ替えが宣言されたということが分かってきた(ちょっと大げさか)。
マーラーはいったん Scherzo - Andante の順で第6交響曲を書き上げてカーント社から出版したが、この曲を初演するにあたり、次のメモをプログラムに挟んで、楽章の順序を入れ替えてAllegro - Andante - Scherzo - Finaleとして演奏した。
Die Reihenfolge der Sätze in der
6. Symphonie von Gustav Mahler
wird folgendermaßen bestimmt:
I. Allegro energico, ma non troppo (22 min.) Heftig, aber markig
II. Andante moderato (14 min.) (in der kleinen Partitur als dritter Satz bezeichnet)
III. Scherzo (11 min.) (in der kleinen Partitur als zweiter Satz bezeichnet)
IV. Einleitung und Finale (30 min.)
C. F. Kahnt Nachfolger.
ところが、「マーラーはその後、ミュンヘン初演をIIアンダンテ→IIIスケルツォの順で行ったあと、ウィーン初演で、プログラムはIIアンダンテ→IIIスケルツォで印刷されていたのにもかかわらず、IIスケルツォ→IIIアンダンテに戻した。マーラーが<6番>を指揮したのはそれが最後だったため、それが結論ということになろう」(金子建志『マーラーの交響曲』1994,音楽之友社,ISBN:4-276-13072-7)とされていて、1963年出版のマーラー協会版楽譜が Scherzo - Andante の順を採用した。ポケットスコアに添えられたラッツ(Erwin Ratz)の簡単な校訂報告は次のように述べている。
…そこで彼は第2楽章にアンダンテをもってきて第2稿を出版した。しかし、これでは作品の基礎になっている理念が壊れてしまうことをすぐに悟り、マーラーは再びもとの楽章配列(第1楽章、スケルツォ、アンダンテ、フィナーレ)に戻した。だが、残念なことに、総譜を出版する際の手落ちで、然るべき言及が添えられなかった。そのために、マーラーの望んだ楽章配列は不明確であるという考えがいつも支配的であった。この問題も同様に、全集版のこの巻によって今やなくなった。
この変更は物議を醸したけれども、マーラー協会の権威のおかげか、第6交響曲はこの順序で演奏するのが一般的となった。その後、フュッセル(Karl Heinz Füssl)とクビック(Reinhold Kubik)の校訂により、マーラー自身の第2版(Neuausgabe, 1906)への訂正を反映させた改訂版が1998年に出ているが、楽章の順序はそのままだ。と、この辺りまではよく知られている話。
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さて、キャプランの記事は、Andante - Scherzoの順序で演奏することの音楽的な意味について述べ、マーラーが最初は Scherzo - Andante で作曲・出版したものの初演のリハーサルで順序を入れ替え、その後50年にわたって(1947年のミトロプーロスによるアメリカ初演も含め)この順序で演奏されたことを記した上で、なかなか衝撃的なことを書いている。マーラー協会の創設者にして全集版の校訂者であるラッツが、自分の音楽理論に合わせるために事実を歪曲していたというのだ。
ラッツの後継者で現在の校訂責任者でもあるクビック(最初はラッツの考えを支持していたが、だんだんおかしいと思うようになった)の説明を引用しながら、キャプランは、マーラーが楽章を入れ替えた(アンダンテを第2楽章にした)という事実は明白である一方、ラッツが上の校訂報告に書いたような「マーラーは再びもとの楽章配列に戻した」という証拠がないことを示していく。唯一の根拠といわれている、アルマが1919年に「最初にスケルツォ、そしてアンダンテ」とメンゲルベルクに電報で伝え、それをメンゲルベルクが「マーラーの指示により」とスコアに書き込んだという話も、マーラーの意図とは関係なくアルマの勘違いないし思いこみによるものと指摘する。
ラッツは、出版社に順序を入れ替え(スケルツォを第2楽章に)させるため、アルマに手助けを依頼したり、「《マーラーは晩年、もとの順序の方がいいと決意した》とコンセルトヘボウのマネージャ(メンゲルベルクの従姉妹)が教えてくれた」とか主張してみせる(クビックによれば根拠なし)。
そしていよいよ1962年、批判版の出版の前年、ラッツはおそらくマーラーが音楽において最も信頼を寄せていた指揮者ブルーノ・ワルターの手紙を見つけた。ワルターは明確に、マーラーがAndante - Scherzoの順序について後年に否定したことはない、と書いている。ラッツは、ワルターの証言を公開しなかった。
クビックは、「ラッツはだんだんScherzo - Andanteの順序が正しいという妄想にとりつかれ、事実に対して盲目になっていった」と述べている。そして1963年にこの批判版が出版され、多くの学者や演奏家に甚大な影響を与えることになった。
※この記事では、ウィーン初演で順序がどうだったかということは述べられていないが、同じ記事で触れられているニューヨークの録音技術者ブルック(Jerry Bruck)の調査によれば、「マーラーが友人、知人、指揮者、出版社に対して、これらの楽章の順序を最初のものに戻すという考えを示した、いかなる書面もしくは口頭の指示も存在しない」ということだ。
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マーラー協会のページは、初演時のメモを示した上で「マーラーはこの作品をこれ以外の形で演奏したこともなければ、この変更を元に戻そうとしたこともない」と書き、「作曲者の意志に従い、楽章の演奏順序は上に示したとおりであることを宣言する」とクビックの名前で告知している。これ以上のことは、書きようがない、というところかな。出版社のC.F.ペータースは協会から変更の指示を受け、在庫のスコアにはAndante - Scherzoの順序が正しいという注意書きを加えるそうだ。