カペレの次の演奏会はブラームスの交響曲1番を取り上げる。今日は弦分奏で細部をかなり丁寧に練習した。普段通り過ぎてしまうような箇所をじっくり繰り返して弾き方を確かめていったので、なかなか充実していたのだが、ときどき気になる部分もあり。例えば3楽章の30-32小節目で、2nd VnとVaが半音上昇音型をスラーで奏でた後、次の小節に入る前に2つの音だけがポルタートになっている部分。
この2つの音を区別して弾くようにという指摘は結構。しかし、これをスタカートのように短く切って弾くのがいいのか? ブラームスはポルタートを重視していて、スタカートとは違う効果を想定していたはず。再び、The Cambridge Companion to Brahmsのノリントンを引用してみよう。
私たち〔ノリントン+LCP〕が多用した奏法は、ポルタート、すなわち半スラーの弓使いです。ヨアヒムはこれについて、彼の論文では直接的にはほとんど言及していませんが、バイオリン協奏曲の記号の付け方に関するブラームスとの往復書簡で、この件はしばしば登場します。(中略)グローヴ音楽事典ではそれは「スラー付きスタカート」と分類され、「一弓で弾かれる2つもしくはそれ以上の音符をはっきり区切ること。個々の音符に点もしくは線を付け、ひとつのスラーでつないで示す。中庸のスピードで弓を弦につけて(on-string)奏され、音の区切りの度合いは音楽の性質による」となっています:つまり、弓を弦につけた、レガートとスタカートの中間の奏法ということ。よく引き合いに出される例は、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲の第2主題です。
ブラームスはこの奏法に強い関心を持っていましたが、その記譜方法についてはヨアヒムと意見が食い違っていました。ブラームスは棒とスラーの組み合わせを嫌い、全ての場合に点とスラーを使うことを好みました。そして「君はまだこの記号をスタカートとして使っているが、僕はポルタートを意味しているんだ」と述べ、ベートーベンが同じ用法をしていることを示して彼の選択が正しいと主張しました。フローレンス・メイ〔ブラームスの伝記作者〕は、ブラームスが2つの音をスラーでつなげる良く知られた効果を多用していたと記し、「彼がこの点について私に示したこだわりから、この記号は彼の音楽で特別な重要性があることを理解した」と述べています。
レガートとスタカートの中間というのは、まあ記譜の通りなので当たり前なのだが、これをどう弾くのかは何となく分かったような分からないような、曖昧なままになっていることが多い。ノリントンは、ブラームスは多彩な表現のためにいろんなアーティキュレーションのバラエティと組み合わせを用いているのだと言う。
彼は弓使いの多様性とそのコントラストを示す場面をたくさん与えてくれます。彼がよく使うピチカートも、アーティキュレーションの絶えず変化する表面の1つなのです。これが、最大の表現を引き出すために練習において私がとても苦心した点です。
スタカートといってもいろいろな表現方法があるように、ポルタート記号を一般論としてどう弾くかというのはあまり意味が無い。それよりも曲全体を表現する上で、スタカート、スラー、ピチカートなどのアーティキュレーションをどう組み合わせ、どんな位置づけとして音楽を構築するか、そのプランの中で、「我々が弾くポルタート」というものが見えてくる。まぁしかし、スタカートと同じように短くということは、まずあり得ないだろうけれど。
ついでながら、ブラームスがアーティキュレーションを細かく使い分けていたいうことを考えると、単に音型やリズムが似ているからというだけでスタカートなしの音符をスタカートがあるように弾くのは、やはりおかしいと言わざるを得ない。作曲家がスタカートを省略した? 新ブラームス全集の楽譜を校訂したロバート・パスコールは次のように述べている。
...we can readily see that the exact placement and extent of hairpins, slurs and articulation signs did matter to Brahms.
楽譜出版社の校正刷りにブラームスが書き込んだ修正などを詳細に見ると、スタカートなどのアーティキュレーション記号はもちろんのこと、クレシェンドがどの音符から始まるかということまでブラームスは気を遣って訂正していることが分かるというのだ(新全集の楽譜は、一見旧全集と違わないような所でも、微妙にクレシェンドの位置が修正されていたりする)。音楽をよく吟味した上で、やはりスタカートの箇所と同様に弾くというのなら、それはそれでもいい。しかし、何となくよく似た音符だからとか、以前にこう弾いたからとか、CDで聴いた音がこうだったからというので譜面を無視するのは、違うんじゃないか。