歴史に汚点がまたひとつ。しかもかなり大きく醜いやつが。国際政治というか、世界を股にかけた利権の権謀術数にはナイーブな理想主義だけでは太刀打ちできないことは承知しているが、それにしたってここまで無理が通って道理が引っ込むのはどういうことだ。

ショスタコの7番は戦争を描いたとされるが、練習中に耳栓をしたくなるような打楽器と金管楽器の大音響に囲まれながら、《爆弾が炸裂するというのはとてもこんなレベルではなく、想像もつかないような恐怖と激烈な轟音のただ中にいることだ》と思ったとき、安易に“戦争の音楽”などということを語れなくなった。そしてその想像もつかない戦争が、演奏会からわずか1カ月少しのうちに現実のものとなってしまうという皮肉。

戦争を始めておきながら「できるだけ民間の犠牲が少なくなるように」とぬけぬけと言ってみせる傲慢な輩は、恐怖のかけらすら思い至っていないに違いない。レトリックの陰に巧妙に隠されているものは何か。戦争はテレビの向こうで行われるショーではなく、リアルな破壊、殺戮、惨劇の恐ろしい集積だ。戦争反対とは、そういう絶望的な体験を、生ある人間に残酷に強要するなということなのだ。

こういう時、無力な我々にできることは。せいぜい、ブリテンの「戦争レクイエム」か、メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」を聴きつつ小さな抗議の声をあげるぐらいのことか。ブリテンがスコアの扉に引いたオーエンのことば「今日、詩人がなし得るすべては警告することである」を噛みしめながら。

()