スメタナ「わが祖国」の演奏ノート


このCDについて

私たちのスメタナの演奏の狙いは、私たちがこのところ取り上げてきたオリジナル楽器による19世紀音楽のプロジェクト(ブラームスワーグナーブルックナー)と同じです。それは、楽譜、楽器、演奏者の数と配席、そして楽器の演奏スタイルについての情報というものに関わっています。

スメタナの考えは、プラハ国立図書館にある彼の手稿に極めて明快に現れています。彼は優れて経験豊かな作曲家で、自分が何を成し遂げたいのかをよく分かっていました。残念なことに、どの楽譜の編集者たちも、オーケストラの要素が着実に「改善されている」ことを見逃しておくことができず、その結果しばしばスメタナのオーケストレーションをすっかり変更してしまうことがあったのです。この録音においては、オリジナルの資料に立ち返る試みを行ないましたが、原典版の演奏譜(Urtext performing edition)はどうしても必要です。

百年以上前のオーケストラの音は、今日のものとは驚くほど異なっています。弦楽器はすでに今日のものと同じようになっていましたが、弦はスチール製ではなくガット弦でした。木管楽器と金管楽器は今日のものとは非常に異なります。ティンパニは、もちろん、まだ革製のヘッドを使っていました。

1880年代の弦楽器の数は、今日よりもずっと少数でした。スメタナは、オペラの場合など、少ないときは6人の第1バイオリンで我慢しなければならないこともありました。けれども、当時のウィーン・フィル(この演奏と同じように46人の弦楽器)ぐらいの人数を指揮できるときは喜びました。ブラームス、ドボルザーク、チャイコフスキー、そしてスメタナのような作曲家はみな、弦・木管・金管のこのようなバランスを念頭において作曲したのでした。彼らはさらに、世界共通の19世紀型の舞台配置も想定していました。この演奏でもそうですが、第1バイオリンと第2バイオリンは舞台を挟んで向かい合います。金管とホルンも同じように並びます;一方、低音楽器はできるだけ舞台中央に近づけます。

もちろん、実際に楽器をどう演奏するかによって、楽器の構造から類推できる以上の音の違いが生まれます。金管と木管のアーティキュレーション、弦のボウイングの方法とスタカートとポルタートに対する19世紀風のアプローチ、これら全てが、私たちにとってとても重要な、明晰さと注意深いフレージングとなって結実します。よりはっきりしているのは、ヨアヒムのような奏者が「純粋な音(pure tone)」と呼ぶもの、すなわち全ての楽器がビブラートをほとんど使わないか最小限の使用にとどめることで、1920年以前のあらゆるオーケストラの特徴となっているものの追求です。

全ての歴史的情報が集められ、テンポやルバートに関する手がかりが揃っても、私たちにはまだ解釈という重要な仕事が残っています。私たちの目的は、個人的な視点と歴史的な事実を融合させ、それらが手を携えて進むようにすることです。私たちはこれら全ての目標を、理論や文化や道徳的な理由からではなく、単に作品がその本来の言葉で語れるようにし、そしてそれをもう一度若返らせ、今日の聴衆に可能な限り新鮮に響くようにと追求しているのです。

サー・ロジャー・ノリントン1997

日本盤の木幡一誠氏によるライナーノートの翻訳は、最近のCDの解説の中では珍しくきちんとしたもので、文章もこなれ、(このページよりも)大変読みやすくなっています。また、池田卓夫氏によるイントロダクションでは、「プラハの春96」での演奏について、プログラムでのインタビューも引用しながら、丁寧に解説されています。藁科雅美氏による曲目解説も有益なもので、若干余計にお金を払っても今回は日本盤を買う価値があるかも知れません。

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