チャイコフスキーの交響曲第6番について、よく分からないことがいくつかあるので、あれこれ資料を調べてみた。今日はまず《悲愴》というタイトルに関して、(1)いつ、どうやってつけられたのか;(2)本当はタイトルを付けたくなかったのか;(3)その意味するところはどんなものか;の3点について整理しておこう。
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このタイトルが付けられた経緯として最も有名なのは、チャイコフスキーの弟モデストが著した伝記に書かれている次のようなエピソードだ。曰く《初演の翌日、兄が曲につけるタイトルを思案しているので、モデストは最初трагическая(トラギチェスカヤ)を提案するが、チャイコフスキーは腑に落ちない様子。しばらくしてモデストがпатетическая(パテティチェスカヤ)はどうかと問うと、「ブラボー」と言ってスコアの表紙に書き付けた。》
自筆譜の表紙には、патетическая Симфония (悲愴 交響曲)No.6と書き込まれているチャイコフスキーの伝記的な研究はほとんどこのモデストの著作から出発しているので、たいていの曲目解説に、題名の由来としてこの話が使われている。しかし、チャイコフスキーに関するさまざまな資料が公開されるようになると、モデストの伝記は必ずしも額面通りには信用できないことが明らかになってきた。「悲愴」のタイトルについても同様だ。
チャイコフスキーの新批判全集を編集しているコールハーゼは、1993年に行われた没後100年シンポジウムで「作品の成立に関する文書を調べると、タイトルは初演後に弟モデストの提案を受けて付け加えられたのではなく、曲が完成する数ヶ月前から作曲家によって使われていたということが分かる」と述べている(Editionsprobleme der Neuen Cajkovskij-Gesamtausgabe am Beispiel der 6. Sinfonie, ISBN:3-7957-0295-X)。同年にショット社から出た新全集版《悲愴》の前書きにも「作曲者自身が付けたタイトルである」と記された。また、チャイコフスキーの自殺説に対する反論で有名なポズナンスキーも、1996年の著書 Tchaikovsky's Last Days (ISBN:0-19-816596-X)で次のような見解を示している。
ピョートル・ユルゲンソンからチャイコフスキーに宛てた1893年9月20日付の手紙に示されているように、8月の終わりから9月のはじめにかけて、チャイコフスキーは最終的に新しい交響曲のタイトルに思い至った。チャイコフスキーはそれを《悲愴交響曲》と呼ぶことに決め、おそらくこのときに、総譜の最初のページにフランス語で題名を書き入れた。
ユルゲンソンの手紙に記された内容はこうだ:「あなたのこのPathétique交響曲についてですが、《第6悲愴交響曲》よりも《交響曲第6番 悲愴》とするべきだと思います。いかがですか?」。さらに、ポズナンスキーによれば、指揮者ナプラヴニクは、初演当日(プログラムには題名はなかった)の日記に「新しいロ短調の第六交響曲、悲愴(?!)」と書き込んでいるという。
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このタイトルに関するもうひとつの不思議は、いくつかの文献が「作曲者はタイトルを付けて出版することを望まなかった」としていること。音楽之友社の『名曲解説全集』(1979)や『クラシック音楽作品名事典』(1996)に「出版社に宛てた手紙ではタイトルをつけないように指示したが、結局Symphonie Pathétiqueとして出版された」という趣旨の説明があるのをはじめとして、いくつかの伝記やCDのライナーノート、さらに海外の資料でも少なからずこうした記述を目にする。
しかし、チャイコフスキーが交響曲の初演後に出版社ユルゲンソンに送った手紙は、全書簡カタログによれば10月18日付の1通(カタログ番号5062)だけで、そこにははっきりと「表紙に《ヴラディーミル・リヴォーヴィチ・ダヴィドフに捧げる / Simphonie Pathétique / (No.6) / op.??? / P.チャイコフスキー作曲》と書いて欲しい」と記されている。同じ手紙に、「土曜日にモスクワに行くので、すぐに話をしよう」と書かれているものの、それは彼の死病のため実現しておらず、他の何らかの手段で取り消しの意志を伝えたという記録は見あたらない。
ユルゲンソンに宛てた10月18日付(旧ロシア暦)の手紙には、甥への献呈とともに、はっきりSimphonie Pathétiqueと記されている「取り消し説」は謎めいた死にまつわる神話のひとつのような印象が強いのだが、この説を唱えている人々は何を根拠にしているんだろう。もしかして、標題(プログラム)とタイトルを混同している?
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最後に、「悲愴」というタイトルの意味するところを巡って。自筆総譜の表紙に記されたロシア語のпатетическая(パテティチェスカヤ)は、辞書を紐解くと、「悲愴」というニュアンスとはちがって、「情熱的、感情のこもった」という意味が示されている。このずれは、森田稔氏が『新チャイコフスキー考 没後100年によせて』(ISBN:4-14-080135-2)の最後に次のように書いたこともあって、けっこう注目されるようになった。
日本語で「悲愴」と訳されているパテティーチェスカヤという単語には、ロシア語の辞書を引いても「悲愴」という意味は出てこない。これはロシア語では「情熱」とか「強い感情」といった意味の言葉なのである…(中略)…チャイコーフスキイはこの時まったく死ぬつもりなどはなく、遺言としてこの曲を作曲しようなどとは全然考えていなかった。つまり、作曲家の死後に、人々の間に形成されていった噂話がヨーロッパにも伝わって、この曲のイメージをすっかり変えてしまったことになる。
このロシア語については欧米でも似たようなことがいわれている。たとえば、ロシア出身のポズナンスキーも、前掲書で「ロシア語の《パテティチェスカヤ交響曲》の意味するところは、ベートーベンがヘ短調作品57のソナタを《熱情(Appassionata)》と呼んだのとほぼ同じ、すなわち感激した、熱烈なということであり、より良く知られているフランス語のSymphonie Pathétique、すなわち 'a symphony of suffering' の示すような意味はない」と述べているのだ。
「悲愴」とかpathétiqueという言葉の持つ含意が、作曲家の突然の死と結びついて、この曲の解釈をかなり歪めてきたという「修正主義史観」的な視点も含め、タイトルの意味を問い直してみるのはそれなりに意義のあることだろう。ただ実際には、前述のとおり、チャイコフスキーは出版社とのやり取りのなかで自作を「pathétique」と呼んでいたし、自筆譜の第1楽章冒頭に書き込まれているのは、表紙と違ってフランス語のタイトルだ。
自筆譜第1楽章冒頭には、Simphonie pathétiqueという標記がある。結局どっちかよく分からんわけだが、チャイコフスキーは当時のロシア知識人としてフランス語もそれなりに操っていたはずだから、彼の中では、патетическаяとpathétiqueは同等、というか、両方の意味にまたがる複合的な概念を形成していたのではないかな。いうまでもなく、交響曲第6番が表現しているのは、情熱、悲哀、あるいは諦念といった感情のどれかひとつだけなのではなく、これらは入れ替わり立ち替わり、また重なり合って現れてくる。こういう音楽に、敢えてпатетическая / pathétique という多言語間の揺れを踏まえたタイトルをチャイコフスキーが与えたのだとしたら、それはまた興味深いことだと思うのだが。
※モデストのエピソードと取り消し説に関しては、「モデストの伝記に見る《悲愴》のエピソード」も参照。