ノリントンの「田園」でポルタメントが使われているということを書いていて、思い出した。昨年の『レコード芸術』で吉村渓がジョシュア・ベルにインタビューした記事の中で、ちょっと気になる記述があったのだ。ベルがノリントンと録音したバイオリン協奏曲のCDについて質問しているのだが、それがピリオド・アプローチでユニークであるという話の途中で、ポルタメントに関して何だか変な展開になっている。少し長くなるが、引用しよう。
――(前略)メンデルスゾーンではポルタメントをかなり多用していらっしゃいましたが、これについてノリントンさんとの見解に相違は生じませんでしたか?
〔ベル〕もちろん音楽史上の慣習や歴史的演奏法は常に私自身の勉強の対象ですし、確かにノリントンはそうした問題にかなりのこだわりを持ち、実際に精通している人ですから、共演に際して突っ込んだディスカッションはかなり経てきています。(略)ポルタメントにしても、最後は自分の直感に従って、どう弾くのが作品に対して最も自然で無理がないかを判断しなければなりません。歴史的考証についても、究極的には誰がどう弾いたかは突き止めきれないわけでしょう。ですから、そのさじ加減を最後に決定するのは自分になってくるわけです。
――なぜそう訊ねたかといいますと、ノリントンさんにも昨年秋のシュトゥットガルト放送交響楽団との来日公演の際にインタビューしているのですが、彼は明確に「ポルタメントとヴィブラートは、ロゼーの時代ごろから始まった新たな装飾技法であり、それまでは一般的に使われることはなかった」と断言していたので、それを押してベルさんが違ったスタイルを採用している点に、ご自身の主張が出ているのではと推測したからなのです。
以下略(『レコード芸術』2002年12月号p.240)
ノリントンは確かにビブラートはロゼーの時代までは使われていなかったと述べているが、ポルタメントをそんな風には否定していないはず。ブラームス交響曲の演奏ノートやプラハの春のインタビューでも、「幾ばくかのポルタメント」は肯定的に言及しているし、The Cambridge Companion to Brahmsに寄せたブラームスの演奏論では、ヨアヒムのバイオリン教本で《ポルタメントは、歌において1節として歌われるべき2音の間にスラーがかかっている時の表現に対応する。ただし過度のポルタメントは良くない》と記されていることを引きながら、次のように述べている。
この技法は、20世紀初期の演奏でも聴くことができます。例えば1930年代のエルガーの交響曲など。しかし興味深いことに、ビブラートが一般的になっていったのに対し、20世紀においてはポルタメントは反対の道を辿り、しばしば趣味の良くないものとみなされ、クラシック音楽の演奏では用いられなくなってしまいました。私たちは、ヨアヒムに従い、特別な表現効果をだすために多少(some)用いました。けれどもそれは弓を軽くして弾くのであって、2つの音を決して重く強調したりはしていません(それはヨアヒムが悪趣味な「哀れっぽい声」と批判しているものになってしまいます)。私の考えでは、この先20年の間に、何も考えていない絶え間ないビブラートは、同じように衰退の道をたどるでしょう。このやり方は、ポルタメントがそうだったように変わりうるものなのです。
Roger Norrington with Michael Musgrave, Conducting Brahms, in "The Cambridge Companion to Brahms", p.236
ノリントンは、もちろんポルタメントの“多用”を推奨しているわけではない(ブラームスの演奏としてはポルタートが重要だと書いているが、これについてはまた別の機会に)。しかし、必要な効果のために適度に使うのはむしろ普通だったと言っているわけで、吉村さんの書いているのはちょっと違うと思う。疑問のメールを送っておいたら、ずいぶん前の演奏会でばったり会った時に「こんど録音テープを確認しておく」と言っていたものの、そのご音沙汰なし。どうなっちゃってるんだろう…なんてことを、「田園」を聴きながら思い出したのだった。