Cahier de la musique

音楽雑記帖 - 最近の雑記 (6~10)

雑記帖の最新から数えて6~10番目の記事を表示します。

ブラームスのテンポ加筆

ブラームスの交響曲4番とピアノ協奏曲2番を演奏するという僥倖に恵まれたからには、やはり自筆譜に書き込まれたテンポ指示について考えておかねばなるまい。ブラームスはこの2曲のスコアに、自分自身以外の指揮者へのガイドとしてテンポの変更に関する指示を注記したことが知られている。これらは「曲がまだ十分知られていないときにのみ必要なもの」として出版譜からは取り除かれているが、作曲家の考えを垣間見る貴重な情報であることには違いない。パスコールとウェラーがこれらを詳細に分析した論文 Flexible tempo and nuancing in orchestral music: understanding Brahms's view of interpretation in his Second Piano Concerto and Fourth Symphony(in Performing Brahms, 2003, Cambridge University Press, ISBN:0-521-65273-1)に基づき、その内容を確認してみよう。

ブラームスが独奏を担当したため指揮をエルケルに任せたピアノ協奏曲第2番には、次の書き込みがある。

第1楽章
  • 27-29小節:poco rit. - - - - in Tempo.
  • 118小節:(animato) ~ 128小節:(poco sostenuto) ~ 133小節:(in tempo)
  • 213小節:un poco animato ~ 238小節:in tempo I. Tempo I.
  • 286小節:(sostenuto) ~ 291小節:(in tempo)
  • 332小節:(un poco sostenuto) ~ 342小節:(animato) ~ 355小節:Tempo I

最初はピアノのカデンツァから全合奏に入る前のごく自然なリタルダンド。2番目は第2主題に入ったら最初はやや速く、ピアノが加わって少し遅めにして、フルートとの掛け合いが終わったら元のテンポに戻すことを示している。3番目は同じ第2主題の付点リズムが展開される部分でテンポを速め、冒頭の動機がff の全合奏となるところで元に戻す。4番目は提示部の第2主題と同様だが、主題の最初でテンポを速める指示がないところが異なる。最後は、コーダに向かう前の経過部でテンポを落とし、ff から速く、ピアノのソロが主導する部分から元のテンポという指示だ。

第2楽章
  • 63-65小節:un poco sostenuto ma sempre agitato ~ 92-94小節:un poco calando -- Tempo ~ 102小節:Tempo I
  • 216小節:(poco meno presto) ~ 232小節:in tempo

前者は、ピアノによる第2主題の後半から、アジタートを保ちつつ少しテンポをゆるめ、冒頭にリピートする10小節前からテンポを戻すことを示している。後者は、中間部の後半、ff の全合奏が終わってカデンツァ風のピアノソロになる部分は少しテンポを落とす(あるいは急がない)ことが書き込まれている。

(第3楽章には書き込みはない)

第4楽章
  • 36-39小節:poco - a - poco animato ~ 59-63小節:poco - a - poco in tempo
  • 161-165小節:un poco strin - gen - do in tempo
  • 221-224小節:p dim e poco rit ad lib
  • 271-274小節:poco - a - poco animato ~ 301-305小節:poco - a - poco tempo I

最初は、第1主題が展開される部分は、f に向かって徐々に速くして行き、第2部に移行する部分ではdim に合わせてテンポを落として元に戻す。2番目は、パスコールらは第1主題が回帰して第3部が始まる部分に向けて徐々にテンポを上げると読んでいるものの、その前にテンポを落とす指示はない(イ短調の旋律でゆっくりになっているというのはありがちだが、63小節の場合はin tempoとされている)。3番目は印刷府にも記されているピアノソロのrit.がやや手前に書かれていたもの。4番目は基本的に最初と同じことだ。

ベルリンで第4交響曲を指揮するヨアヒムのために、ブラームスは次の書き込みを送った。

第1楽章
  • 393小節:ベースの4拍目の下にpesante、さらに395小節目に(Nicht eilen bis zum Schluß!)

コーダの部分は重く、最後まで急がずに。pesanteはいいとして、Nicht eilen bis zum Schluß! は意外に思うかも知れない。

(2、3楽章は書き込みはない)

第4楽章
  • 54-57小節:- - sost - - - largamente ~ 65小節:in tempo
  • 153小節:pesante ~ 191-193小節:animato ~ 213-217小節:- - - - - tranquillo
  • 249-252小節:sost - - - - -
  • 297-301小節:(sost. - - accell.)

最初は、第7変奏に向けてテンポを落とし、第8変奏で元に戻す。2番目は第19変奏で重く、再現部の24変奏でテンポを上げ、ト長調になる第27変奏に向けて穏やかにしていく。3番目は出版譜にPoco ritard.- - - と書かれているのと同等。4番目は、コーダでホ短調が確保されて半音階進行で上下に拡がる部分のテンポを落とし、その後一気にアクセルをふかすという指示。

ブラームスはヨアヒムに宛てた手紙に「作品が十分血肉となったらこうした話は無用で、余計なことをするとかえって非芸術的な結果になる」と書き、出版譜からはこれらを削除した。したがって、このテンポ変化の指示を、今そのまま受け入れるべしという結論にすぐ至るわけではない。実際、ブラームスから信頼の厚かった指揮者シュタインバッハのメモでは、第4交響曲の場合、これらの書き込みとはほとんど逆ともいえる注意書きが残されていたりするほどだ。

それでも、我々は「作品を十分血肉」にしているかというと、実はCDなどで聴いた演奏の印象が染みこんでいるだけかも知れない。それならば「曲がまだ十分知られていない」状態に近いとも言え、先入観を捨てて、ブラームスの書き込みを念頭にスコアをもう一度読み直してみるのは、無駄なことではないだろう、と思う。

ピリオド楽器のシェヘラザード

待ち望んでいたインマゼールシェヘラザードのCDが店頭に並んでいたので即購入。シェヘラザードは先日演奏したばかりな訳だが、できればこの録音を聴いてから演奏会に臨みたかったというものだ。

ビブラートのない弦のサウンドは期待通り。長い音がまっすぐ素直に響くためアクセントや装飾音が生きてきて、新鮮だ。丁寧なフレージングと組み合わせると、その効果がよく分かる。管楽器の音色はよく注意して聴かないとピリオドという感じはしないが、弦の編成が8-8-6-6-5(チャイコフスキーの録音とほぼ同じ)なので、ソロが力みなく浮き出てきている(こめかみが破れそうな演奏の対極)。ハープは、まさに“竪琴をつま弾きながら語る”という雰囲気が出て、いい味わいだ。

CDのノートでインマゼールは次のように語っている:

シェヘラザードの最終楽章は、管楽器の音が強すぎて、弦楽器を聞き分けることができなくなるとよく言われます。しかし、モダンオーケストラがやっているような、弦楽器セクションを倍増するという方法は、解決策にはなりません。オーケストラを絵画に例えてみることもできるでしょう:鼻がこすれるほどの至近距離で絵を見ることを画家が想定していないように、作曲家が書いた全ての音の細部を聴き取ることは、本来必要ないことなのです。シェヘラザードの最終楽章において、弦楽器は道路であり、地下水流であり、脈打つハートです。それは、単独で聴かれるべきものではなく、重要なのはオーケストラの内部のバランスなのです。

これはちょっと珍しい論法だが、要するに管楽器に対抗するために弦楽器の数を増やすのは意味がないということだ。もちろん逆に、弦が多すぎると木管がいくら頑張っても音が届かないということにもなる。インマゼールは、あるアメリカのオーケストラのリハーサルで指揮者がオーボエ奏者にもっと音量をもとめたところ「そうしたいのは山々だけれど、私の目の前にあるミシシッピ川を渡る術がないんです!」という返事が返ってきたエピソードを紹介している。このCDのバランスによるシェヘラザードの響きは、一聴に値する。

テンポは特に速いということはないものの、よくあるタメをほとんど行わないので、音楽はすいすい進んでいく。大仰な演奏に馴れた人には物足りないかも知れないが、シェヘラザードはそんな演出なしでも十分に楽しい曲であることが再認識できるだろう。

インマゼールとアニマ・エテルナは、2002年に初めてシェヘラザードを演奏している。その後2003年のリスト・プロジェクトを経て、2004年5月のレーゲンスブルク古楽音楽祭で演奏したあと、6月にこのCDを録音した。今年の10月にはラヴェルに取り組むそうだ。どんなものが出てくるのか、楽しみにしておこう。

最近の音楽雑誌から、ノリントンやダスビなど

今月の音楽雑誌を眺めていたら、ノリントンがずいぶん目立っていて面白かった。『モーストリー・クラシック』2005年7月号では、(日本におけるドイツ年にちなんだ)ドイツ・オーケストラ特集とからめたような感じで、ノリントンのインタビューが見開きで掲載されている。コンパクトながらなかなか良い記事だ。

レコ芸は6月号から「究極のオーケストラ超名曲徹底解剖」という、いかにもな特集をスタートさせた。この号では11曲が取り上げられているが、そのうちノリントンが録音しているのは5曲。驚くなかれ、その全ての曲について、読みもの本文でノリントンの演奏が取り上げられ、しかも3曲は「筆者のベスト3」に選ばれている。例によって、各曲につき一人の“筆者”が好きなことを書いている記事なので、言及されたからどうだというものでもないのだが、数年前ならちょっと考えられないようなメジャー扱いには驚く。

ちなみに「ベスト3」になったのはベートーベンの交響曲5番と6番、それにホルストの「惑星」。言及のみはモーツァルトの40番とチャイコフスキーの悲愴だ。悲愴については、“筆者”のお好みとは対極にある特異な例という感じの扱いではあるものの、まあこのお方では、お分かりにならなくても仕方なかろう。

ダスビのベースパート写真。「“よく鳴る”といわれる中低弦。今回演奏の『劇伴オーケストラのための組曲(ジャズ組曲)』には特殊楽器も多い」というキャプションがある。

全然関係ないが、『サラサーテ』の2005夏号には、「アマチュアオーケストラで楽しもう」なるシリーズ(?)の《目的別オーケストラ 1 作曲家に魅せられて》という企画でダスビが紹介されている。ありがちのありがたい企画で特にいうこともないわけだが、ベースパートは「勝手にまとまる」中低弦として写真まで載せていただいた(U氏とかK氏とか、見開き6枚のうち3枚に登場してるメンバーもいる)。せっかくなので、今月の音楽雑誌雑感のおまけとして報告する次第である。

悲劇的序曲とブラームスの“間”

今度お手伝いする演奏会は、冒頭がブラームスの悲劇的序曲。このところアクロバット的な曲が続いていたので、嬉々としてさらってみたりしている。

悲劇的序曲は、アーノンクールがBPOとのブラームス交響曲全集のブックレットに寄せた対談の最後で、大学祝典序曲と合わせて These two overtures deserve to be taken far more seriously than they are. と述べているように、CDの録音は交響曲のついでに適当に演奏したとしか思えないものが大半だし、演奏会のプログラムでは露骨におまけ扱いされていることが少なくない。しかしこの曲は、ブラームスが長く構想をあたためて書いた重厚なソナタ形式の音楽で、交響曲の1楽章に匹敵する内容を持っている。なめてかかってはいけないのだ(含反省)。

さて今日の練習は、個人的にはお初にお目にかかるマエストロなのだが、なかなかいい感じであった。(当然ながら)悲劇的序曲にいちばんたっぷり時間をかけ、各パートに然るべき指示を与え、アイコンタクトもきちんと取っていらっしゃる。柔和ながら適度な緊張感が漂っているのもいい。

だがしかし、よくありがちな「歌って」君が顔を出しちゃったのは、ちょっと残念。第2主題の最初のフレーズで休符が入るところを、「そこで切れ目を入れないで、もっと長いフレーズにして歌って」という趣旨のことをのたまうのである。

第2主題は2小節目の3拍目に休符があり、フレーズがおさまる

ブラームスがここで休符を入れているのは、「あのね、」とささやくときのような間合いを求めているわけで、音を続けて欲しかったら3小節目以降のように長い音符を書くはずだ。再現部にビオラで同じ主題が現れる時に、2小節目の前半にはデクレシェンドが加えられていることからも分かるように、ここはいったんおさめて一呼吸入れるフレーズだろう。これを「長いフレーズのように歌う」などというのは、句読点の入っている台詞を棒読みしなさいと言っているようなものじゃないかいな。と思っていたら、案の定、その結果としてバイオリンのみなさんが奏でたのは、ワーグナーもどきの節回しなのであった。

ブラームス、あるいはその友人ヨアヒムは《フレージングは「話すように」》ということを重視していた。交響曲第1番の終楽章主題や、第2番の1楽章第1主題のような、一見息の長い旋律も、数小節単位のフレーズの語尾を「話すように」おさめることで、親密な対話のようなニュアンスが生まれてくる。悲劇的序曲の場合なら、3小節目以降もスラーの単位でフレーズを区切ってもいいぐらいだろう。無闇にフレーズを長く取ろうとすると、語りのニュアンスとはほど遠いものになってしまうのだ。

これは、今日のマエストロに限ったことではなくて、多くの指揮者は espress. という標語を見ると条件反射のように長いフレーズを要求する。マエストロは「もっとビブラート」などと言い出さないだけの節度は持っておられるようで、ありがたい。たぶんこの場面では、フレーズの最後の音を大切にということを言いたかったのであろう。それはそれで、大切なこと。

全体的には久々にいい感じのブラームス序曲が演奏できるかも知れないので、期待を込めて今後のご指導に注目する次第である。と思ったのだが、ちょっと買いかぶりだったか。でも次回はオール・ブラームス・プロなんですけど…。

ディマンシュの伊福部

昨日(4/3)はディマンシュの演奏会。前プロのドボルザークの後、伊福部昭の日本狂詩曲、シンフォニア・タプカーラを演奏し、さらにアンコールでSF交響ファンタジー第1番まで弾いてしまうという、伊福部スペシャルだ。

伊福部の音楽は、自分の中のかなり深い部分で共振する。メンバーの多くが「やっぱり日本人だなぁと改めて思った」と言っていたけれど、伊福部作品を聴く(演奏する)人が誰しも感じることだろう。祭りの喧噪の中に歌姫が降り立って、衆人が急に耳をそばだてるような調べ。そこに遠くの方から合いの手が響く時、懐かしい光景の断片がいくつも重なって頭の中をよぎる。踊りのクライマックスで最後にピッコロがトリックスターのごとく突入して乱舞する様からは、幼い頃見た火祭りを思い出す。

バルトークほどに精緻で技巧的なわけではなく、日本狂詩曲やタプカーラはつくりとしてはむしろ素朴な部類だ。ベースを弾く立場からすると、アクセント付きの重音の連続だったり、sul pont.が延々と続いたりして、腕力勝負の難物でもある(今日は筋肉痛だ)。それでも、ビオラのC氏が「練習に行くのが楽しくて、オーケストラを始めたばかりの頃を思い出した」と言っていたように、伊福部の曲は弾く喜びがあるのだ。

演奏自体は、ステリハの方がミスも少なくまとまりがあったように思う。でも本番はまさにお祭りで、ディマンシュらしいわくわくするステージだった。

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